26/IV/2019


Casting Technique of Greek Bronze  古代ブロンズの鑄造技術


Summary  要約


1 原型の制作


技術はまず不定形のものを作り、その上で形によって分節化する。彫刻家ポリュクレイトスの言っているように、作業が一番難しいのは粘土が爪の中に入ってくる時だ。 プルータルコス「饗宴について」2.3.2

καὶ γὰρ αἱ τέχναι πρῶτον ἀτύπωτα καὶ ἄμορφα πλάττουσινεἶτα ὕστερον ἕκαστα τοῖς εἴδεσιν διαρθροῦσινᾗ Πολύκλειτος ὁ πλάστης εἶπεχαλεπώτατον εἶναι τὸ ἔργονὅταν ἐν ὄνυχι ὁ πηλὸς γένεται.    Ploutarchos, Quaestiones Conviviales 2.3.2 (=Overbeck 1868, Nr. 971; Muller-Dufeu 2002, no 1174)

 

【技術はまず不定形のものを作り(πλάττω)、その上でさらに形(εἶδος)によって分節化する。彫刻家(πλάστης)ポリュクレイトス(Πολύκλειτος)の言っているように、作業が一番難しいのは粘土(πηλός)が爪(ὄνυξ)の中に入ってくる時だ。】

 


 原型の素材は基本的には粘土と推定され、それゆえ塑造原型と呼ばれる。古代に関して、原型が粘土であったという推測の根拠となるのは、ベルリンにある赤像式オイノコエーである(▶)。技術を司る女神アテーナーが右手で馬を象(かたど)っており、地面に置いてある粘土から一塊りを取って左手に持っている。馬は目や耳の細部まですでに仕上げられているが、手で象っているから蠟ではない、つまり蠟原型の段階ではない。馬と大小二つの塊りが粘土であることは、ここに泥漿を厚く盛って表していることからも分かる。アテーナーは間接失蠟鑄造法でブロンズ像を制作するための最初の原型を、粘土で作っているところと考えられる。ポリュクレイトスは「粘土が爪に入ってくるとき」すなわち塑造原型の段階「が一番難しい」と言ったと伝わるが、その工程である。

 粘土の選定と川砂などとの調合は極めて重要である。塑造原型の粘土、蠟原型の中に入れる粘土、外型の粘土(すべて鑄造土である)には、その土地で手に入る、壺の制作にも適した粘土を使ったと考えられる。

 例外的に、といっても例外性の割合は正確には分からないが、既成の大理石やブロンズの彫刻を使ったことが分かる遺例もある。例えば[ポルティチェッロの頭部B][Reggio]の原型にはおそらく大理石彫刻が、[エフェソスのアポクシューオメノス][Wien]の原型にはブロンズ彫刻が利用されたと推測されている。

 既存の原型を使わない場合、現代と同じようにまず小型の雛形を作り、星取り機に類した機材で目的の大きさに拡大したかも知れない。塑造原型内部の骨組みにはおそらく木が使われた。牝型制作を容易にするために、原型を適当に切断することができるからである。「カナボス」というギリシア語はその木材を指している。粘土の食いつきをよくするため麻紐も使っただろう。鉄製アングルも利用できたと思われる。作業中必要に応じて、水を含ませた海綿、布、皮革などで塑像の表面を濡らし、粘土の乾燥とひび割れを防止したに違いない。




2 牝型の制作


 間接法では次に、原型から、蠟原型のもとになる牝型を取る。牝型の素材については、外型とは違って確実な考古遺品が全く残っていないため推測するしかないが、おそらく粘土または石膏である。ギリシア世界で石膏がブロンズ像制作における牝型材として使われるようになったのはいつ頃からか、は難しい問題である。筆者は前6−前4世紀の鑄造坑から石膏牝型が出土していないことを根拠に、少なくとも前4世紀までは粘土が使われたと考えている。ただ粘土には石膏以上に、収縮・変形・離型剤の問題がある。離型剤にはおそらくオリーヴ油が使われたのではないかと想像され、試みにオリーヴ油を使ったところ、良好であった。

 大型像の場合、前もって原型を適当に切断した上で牝型を取ることが多かったと推定される。牝型を取る際に留意すべき規則の一つは、個々の部分原型を牝型で包み込んでしまわないように計画すること。すなわち牝型制作後、牝型から部分原型を容易に取り出すことができるように、狹く入り組んだ箇所を作らないように工夫することである。もう一つは、牝型を取るのが難しい箇所は、ブロンズを流し込む時に湯がよく回らない箇所でもあるから、分鑄時の分割箇所とできるだけ一致させること。具体的には像をできるだけ相称的に分割し、いくつかの分割線が可能である場合には最も平らな部分で分割することである。それによって修正作業が楽になる。




3 蠟原型の制作①:牝型の内面に蠟を張り込む


 失蠟法鑄造に使われる蠟は、紀元前二千年代にメソポタミアでこの技法が創始されて以来ずっと蜜蠟(みつろう)だった可能性が高い。蜜蠟とはミツバチの巣を加熱・圧搾して得られる蠟である。

 現存する最古の蜜蠟の現物は前600年頃、エジプトの第36王朝頃の、オシーリスの頭部を象った中空の蠟人形の二断片で、これは混ぜもののない純粋な蜜蠟でできている(▶)。ただしこれは鑄造のための蠟原型ではなく、蠟人形である。前420年頃制作された[アゴラーのニーケー頭部](A)の中から純度の高い蜜蠟が検出されたが、これも鑄造に使われたものではない。従ってこれらの例によって、現代行われているように、蜜蠟に松や杉の樹脂などを配合して使いやすくした可能性が排除されるわけではない。扱いやすくするため、混ぜ入れたに違いない。

 間接法における蠟原型の制作は、まず原型から外した牝型の内面に蠟を敷くことから始まる。いくつかの方法が想定されているが、筆者は実際には殆どの場合次の三つの方法が併用されたと考える。すなわち牝型の内面に、(a)液状の蠟を、刷毛を使って塗って、(b)液状の蠟を注ぎ入れて濯(すす)ぎながら、あるいは(c)加熱して柔らかくした蠟の板を押しつけて、必要な厚さの蠟を敷く。いずれの場合にもいくつかの牝型を合わせて空間を閉じ、必要な場合には紐状の蠟で隙間を埋め、その合わせ目を熱した鉄篦(てつべら)で滑らかにする。次に、牝型の中に耐火性の粘土を満たし、必要な場合には鉄の支持棒を入れる(下記〈4-5の工程)。

 この場合蠟=ブロンズの内面に外面の形状が或る程度反映する。また蠟=ブロンズの内面にそれぞれ(a)刷毛の筋や(▶)(b)蠟の滴(▶)、あるいは(c)蠟の板の間の切れ目や重なりの線(▶)、および指を押しつけた跡が認められる。





4 蠟原型の制作②:蠟原型の中に鑄造土を入れる


 鑄造土の入れ方──[リアーチェA/B][Reggio]の場合ブロンズ体内に鑄造土がほぼ完全に残っていたが、外に取り出した断片群から、どのように鑄造土を入れたかを推測するのは非常に難しい。実際、第一次・第三次調査ではそこから(だけではないが)間接法を推論し、第二次修復者は直接法の結論を導いた。いずれにせよ次の二つは確かである。蠟=ブロンズに接する第1層には粒子の細かい土を(日本では紙土/かみつち、肌土/はだつちと呼ぶ)、体内の内側に位置する第2層・第3層には比較的粒子の粗い土を使い(日本では粗土/あらつちと呼ぶ)、さらに有機物を混ぜ入れたこと。泥漿状態、半流動状態、可塑状態、のものを適宜交互に施したこと。

 鑄造土の分析──アテーナイのアゴラーやオリュンピアーの古代の鑄造坑跡の研究から(▶)、古代には殆どの場合、大型ブロンズを一点鑄造するごとに鑄造坑を掘り、鑄造が終わると埋め戻したことが分かる。また、古代の鑄造所跡から出土した外型の破片や土器の破片にはその土地の粘土が使われている。従って、ブロンズの体内に残っている鑄造土と、地中海世界の特定の地域の土壌、とりわけ古代の鑄造所跡から出土した外型の破片や土器の破片に使われた粘土とがほぼ一致すれば、そのブロンズ彫刻はその土地で作られたと考えられる。例えば[キュテーラの少年頭部][Berlin]はキュテーラ島対岸のモネンヴァシアで、[アレッツォのキマイラ][Firenze]はエトルリアで、[リアーチェの戦士A/B][Reggio]はアルゴスで制作されたと推測される。

 熱ルミネサンス法──制作時に鑄造土が500˚C以上に熱され、その後変成を受けていない遺品では、熱ルミネサンス法によって年代決定が可能な場合がある。[アレッツォのキマイラ][Firenze]ではこの方法によって前400年前後という年代が得られたが、これは様式に基づく年代と一致する。[カピトリーノの牝狼][Roma]は最近まで前480−470年頃にエトルリアで作られたと考えられてきたが、中世に加熱されたという熱ルミネサンス法による結果に加え、技法的に中世のブロンズと共通すること、および様式的傍証に基づいて、中世の作と推定されるに至った。



5 蠟原型の制作③:蠟原型の中に鉄の支持棒を入れる


 直接法でも間接法でも、鑄造前には鑄造土を保持しておくために、また鑄造後には彫刻を基台に据えておくために、鉄の支持棒(心棒)が使われることがある。[リアーチェ]の場合、[A/B]どちらの中型にも、断面が約20mm×20mmの、木の周りに鉄の薄板を鍛造した支持棒が入っていた(▶)。支持棒の内部に木の痕跡がいくらか残っている。[マフディアのヘルメース柱]では、角柱の中央に鉄棒が一本立てられたが(▶)、これは直接法である。



6 蠟原型の制作④:蠟原型の表面を蠟で仕上げ、湯口・堰・湯道・上がりを配置する


 ブロンズの厚さ──蠟原型の蠟の厚さがそのままブロンズの厚さになる。概ね時代が下るにつれてブロンズは薄くなる。前5世紀初めには10mmほど、前4世紀末には5mmほど、ヘレニズム期には2-3mm。[マフディアのヘルメース柱][Tunis]については、コンピューター・トモグラフィーによって、鑄造土を入れる前の段階における蠟原型の蠟の厚さと、鑄造土を入れ牝型を外し、表面を仕上げた段階における蠟の厚さとの違いが明らかにされた()





7 笄を配置する


 蠟を流し出す時に外型の中で中型が動いてブロンズに薄い所や厚い所ができることを防止するため、蠟原型を外型で包む前に、金属の細い棒を蠟の上から中型の中にある程度入るまで打ち込んだ。日本では伝統的に笄(こうがい)と呼んでいる。素材は鉄またはブロンズ。断面は一辺が2mm-5mmの正方形のものが多いが、円形、三角形、長方形断面のものも使われている。



8 外型の耐火土を付け重ね、乾燥させる


 次に、湯道と上がりを含む蠟原型全体を耐火性の鑄造土(鑄造土)/鑄物土(いものつち)で包み込む。外型をより堅固にし、そして何よりも貫通するひび割れの形成を最小限に食い止めるために、粘土質の土を複数の層に分けて付ける。アテーナイのアゴラーとオリュンピアーの鑄造坑その他で見つかった断片から判断すると、ギリシアの大型像の外型は一般に二層からなっていた。内側、すなわち蠟=ブロンズに接する層には粒の細かい硬い(硬くなる)粘土が使われた。その最初の部分は泥漿を(時として刷毛を使って)塗り付けられたと考えられる。外側の層にはより粒の粗い粘土を使い、収縮を抑えるための砂、および多孔性/通気性を増すための藁、毛、貝殻など可燃性の有機物質を含んでいる。現代の外型に比べ、ギリシアの外型は著しく薄い。アテーナイのアゴラーの「鍵穴形鑄造所」で見つかった外型の断片の平均的な厚さは、内層がおよそ10mm、外層がおよそ25mmである(▶)。

 下端では蠟の流出口、上端では蠟による湯口・湯道・上がりの最上部だけを出して、全体を外型で包んだ後、熔銅を受け入れるために漏斗(じょうご)の形を粘土で、湯口の上端の上に手で成形した。



9 鑄型を加熱して蠟を排出し、素焼き焼成する


 次いで、外型を乾燥させ、加熱して蠟を溶かし出す。工程〈8 外型の耐火土を付け重ね、乾燥させる〉までの作業は分鑄部品の大きさに応じて鑄造坑でも、あるいは多少ともきちんとした建物を備えた工房でも行われ得たと考えられるが、外型の加熱・焼成からは確実に鑄造坑の中で進められた。鑄造坑の中の、石、粘土ないし他の耐火性の物質で作った土台の上に外型を置き、床の高さよりも上に置くことによって、外型の下部も適切に加熱されるようにした(▶)。現存する外型の土台のいくつかには今なおそれと一体になった粘土の溝が残っており、溶けた蠟はこれによって地面に導かれ、そこで容器に集められ、あるいは蠟に火が点くことを防ぐため、床に道を作って坑の脇か端まで導かれた(▶)。

 蠟を沸騰させることなく溶け出させるために外型を緩く加熱し、次いで赤熱するまで熱し、鑄型の中に滲み込んだ蠟と、粘土中のあらゆる有機物質とが燃え盡き、粘土自体が完全に耐火化されるまで、数時間その状態を維持した。燃料は木と木炭である。古代にはまだ石炭は使われていなかった。この焼成の過程で外型や中型に亀裂が入ることがあり、それは鑄造後のブロンズにバリとして現れる。

 焼成が終わり火を埋(い)けた後、灰を掘り起こして蠟の排出口を塞ぎ、鑄造坑の中に土または砂、陶器片などを入れて外型を埋め、突き固めた。熔けたブロンズの圧力に対抗するためである。

 一つの鑄造坑が長期に亙って使われ続けたことが証明される遺跡はなく、鑄造坑は特定の作品の制作のために作られ、完了後は埋められたと推測される。



10 ブロンズを流し込む


 熔解炉──坩堝(るつぼ)式熔解炉と円柱状熔解炉(▶)の二種類があった。それぞれ日本の定置炉(ていちろ)=火床(ほど)と甑炉(こしきろ)に相当する。

 より単純で一般的だったと考えられるのは坩堝式熔解炉である。これは地中に掘りくぼめた、上に開いた炉で、耐火性の粘土で作った深い椀すなわち坩堝を置き、その中に銅の多数の塊と大量の木炭を混ぜ入れる。坩堝の外周りにも木炭を積み上げる。木炭に火を点け、坩堝の中の温度が約1100˚Cに上がるまで鞴(ふいご)を使って熱する。鞴は山羊の皮と木、および粘土(羽口/はぐち、筒口)で作られたと推測される。銅が熔け始めると、必要な割合の錫を加え入れ、その後表面に浮いている木炭の滓を掬(すく)い取って取り除く。火ばさみまたは一種の担架を使って坩堝を持ち上げ、鑄造坑まで運び、その中身を湯口(湯道頂部の漏斗)を通して鑄型の中に注ぎ込む。運搬の間に無駄に温度を下げないよう、熔解炉はできる限り坑の近くに設備された。

 ブロンズ──銅と錫の合金。銅の融点は1083˚Cであるが、錫の融点は232˚Cであるため、ブロンズには純銅よりも融点が低くなるという大きな利点がある。錫を5%含むブロンズの融点は1050˚C10%含むブロンズは1020˚C15%含むブロンズは960˚C。純銅に比べ湯流れもよくなり、加工・切削が容易になる。

 比率──概して前4世紀末頃までは錫の含有率はほぼ10%前後で、鉛は殆ど含まない。前5-4世紀のギリシアのブロンズ彫刻における合金は、[アルテミーシオンのゼウス][Athina](Cu 86.97%, Sn 11.04%, Pb 0.05%)と[アンティキュテーラの青年](A(Cu 87.8%, Sn 12.09%, Pb 0.05%)によって代表される。すなわち銅・錫の二要素合金で、Cu 87-88%, Sn 12-11%である。

 前3世紀以降、ブロンズに鉛を意図的に加えることが多くなる。鉛を3%以上含む例を挙げると、前3世紀と考えられるものとしては[クィリナーレの拳闘士][Roma](10%)[キュジコスのペルセフォネー断片][Berlin](16-18%)[クィリナーレの君主][Roma](3%)、前2世紀には[マフディアのエロース](17.9%)[マフディアのヘルメース柱](18-20%)[Tunis]があり、あとは多くのものが前1世紀以降に属する。なお前4世紀末の[アゴラーの騎馬像断片][Athina]は鉛の比率が極めて高いが(26.4%)、これは当初から鍍金を予定していたためと考えられる。こうした傾向から、前1世紀末の[エーゲ海のアウグストゥス騎馬像断片][Athina]は平均値がCu 87%, Sn 10-12%, Pb 0.24-1.69%であるが、これは破損した前5-4世紀のブロンズを鑄熔かして作ったか、または技術についてもクラシック期のブロンズを模したと推定され得る。

 他方、エトルリア、南イタリア、シチリアで制作された数点については、前6-4世紀にも鉛が意図的に混ぜられたことが分かる。前530-520年頃南イタリアで作られたと目される[ウジェントのゼウス][Taranto](3.58%)、前400年頃エトルリアで制作された[アレッツォのキマイラ][Firenze](3%)[トーディのララン][Vatican](10%)などである。こうしたことから、地中で発見された[クリーヴランドのアポッローン](3%)もエトルリア製という推論が成り立つ。



11 湯口・堰・湯道・上がりの切除、付着物の除去、分鑄部品の熔接


 前5世紀の[リアーチェの戦士A/B][Reggio][アルテミーシオンのゼウス][Athina]の分鑄各部品の熔接には、ほとんどの部分に古代独自の「楕円形鑄掛け熔接」が適用されている。それはこれまで考えられてきたのとは違い、[リアーチェの戦士A]の左腕、左手首(楯を持つ)、[アルテミーシオンのゼウス]の左腕(水平に伸ばす)など、特に負荷のかかる箇所に限定されない。前3世紀前半の[クリーヴランドのアポッローン・サウロクトノス][Cleveland]や前2世紀後半の[マフディアのエロース][Tunis]などで楕円形鑄掛け熔接が明らかに認められることには、むしろ技術の低下を見るべきだろう。

 西洋における大型ブロンズ彫刻の歴史の中では、古代ギリシアとルネサンス期に最も重要な作品群が生み出された、という考えに異論はないと思われるが、しかしこの二つの時期に熔接技術が果たした役割は全く異なる。アルカイック末期のギリシアでは、まさに熔接技術の発達によって、[アルテミーシオンのゼウス][Athina]に見るような、三次元空間に広がる大型ブロンズ彫刻を着想し制作することができるようになった。これに対しおよそ二千年後のルネサンス期には、中世の間に熔接技術の伝統が失われたため、大型ブロンズ像を一鑄で制作することを余儀なくされた。ルネサンス時代の熔接の稚拙さは、15世紀後半にアントーニオ・デル・ポッライオーロが[カピトリーノの牝狼]に付け加えた「ロームルスとレームス」によく表れている。



12 不完全部分の補修、細部の彫り、表面の仕上げ


 嵌金(はめがね)──とりわけ前5世紀ギリシアの作品、例えば[リアーチェの戦士A/B][Reggio]などでは、ブロンズ表面にできたガス気泡、笄の抜けた跡、不完全部分などは、驚くべき入念さで一つ一つ嵌金で覆われている。大きさは区々(まちまち)で、肉眼では見えないものもあり、ガンマ線写真によればそれぞれ200ほどの微細な嵌金が施されている。ブロンズの厚さと嵌金の厚さを超音波によって調べると、Aの左尻の例では地:嵌金の厚さはそれぞれ7.63.0mm、同じくAの右足の前半分の例では10.05.0mmで、嵌金の厚みはブロンズの半分ないしそれ以下であることが分かる。

 ブロンズ表面の気泡などを修繕する技術は、ギリシアとエトルリア、ローマ、ルネサンスでかなりはっきりと異なることが明らかにされている(▶)。ギリシアとエトルリアの場合は通常、きわめて微細なものに至るまで一つ一つ修繕しているが、ローマ時代にはいくつかの問題箇所をまとめて覆うため、場合によってはきわめて不規則な形の大きな嵌金を使っている。しかし輪郭線は常に直線的である。

 ルネサンス時代の裸像ではしばしば問題箇所の周囲のブロンズを楕円形ないし円形にまるごと彫り取ってしまい、その中の鑄造土をその穴の奧と周囲まで取り除き、楕円形の周囲のブロンズを貫通する多数の小穴をあける。そこに熔けたブロンズを入れて、楕円形と多数の小穴全部を充塡し、強固に固定する。[サン・マルコの馬][Venezia][マルクス・アウレーリウス騎馬像][Roma]などではローマ時代と近代の嵌金と補鑄が混在している。

 研磨の道具は掻き削り器(切下げ=キサゲ、セン)、軽石など。ベルリンの「鑄造所キュリクス」では戦士像の表面を二人の職人が掻き削っており(▶)、二人とも、競技者が汗と香油を掻き取るのに使うストレンギス/ストリギリスに似た形の掻き削り工具を使っている(▶)。






13 着色、鍍金


 着色──ブロンズ表面の意図的な着色。顔料などを塗りつける語感を避けるため最近は「色揚げ」とも呼ばれることがある。これについては最近研究が進んできた。とりわけ前2世紀後半の[マフディアのエロース](▶)と、紀元前後の再利用時に改修された[リアーチェの戦士A/B](▶)の研究による知見が重要である。これまでに確認された着色はいずれもCuS=硫化銅Ⅱによる黒で、加熱したブロンズに硫黄の蒸気を当てて刷毛で塗り着けたと考えられる。私見では、プリーニウスの伝える「コリントスのブロンズ」が前2世紀中頃以降ローマ人の間で爆発的に流行したことが転機となった(『博物誌』9.139)。これは銅に金・銀・砒素を加えた合金で、青光りする深い黒色が人々を魅了した(▶)。貴金属を使うため高価であることから小品にしか適用できなかった「コリントスのブロンズ」の黒色を大型ブロンズで再現しようと、硫黄を使ったと考えられる。

 これに対しギリシア人がブロンズの地金の色を評価したことは、ブロンズ像表面の錆を防止する官吏を神域に配置していたことを示す碑文や、ブロンズ像を地金色で表した陶器画から推測される(▶)。前54世紀のギリシアブロンズの合金が銅Cu 87-88%、錫Sn 12-13%を標準とし、鉛Pbを意図的には使わなかったことも、そのことと関係がある。

 鍍金──鍍金を施された遺品は、前5世紀末と前4世紀末の断片がともにアテーナイのアゴラーで出土している。[アゴラーのニーケー頭部](A)と[アゴラーの騎馬像断片][Athina]であるが、いずれも水銀アマルガム法ではない。銀の薄板の上に金の薄片を置き、槌で叩いて銀と金の間に拡散結合を生じさせる技法と推定されている。ローマ時代の鍍金に関しては、紀元1世紀初頭の[カルトチェートの騎馬群像][Pergola]と紀元2世紀の[マルクス・アウレーリウス騎馬像][Roma]には水銀は認められないので、何らかの接着剤を使って金の薄板を固定したと考えられる。紀元2-3世紀の[サン・マルコの馬][Venezia]には水銀が使われているが、水銀アマルガム法かどうかはまだ解明されていない。





14 乳輪・乳首、唇、歯、目の装着


 唇──クラシック期の大型ブロンズ彫刻ではほとんどの場合、唇に純銅または銅の比率が高い合金を使って別鑄し、他の部分よりも赤い色を表現しようとした。この時期の確実な例外はアルカイック末期の[ペイライエウスのアポッローン][Pireas]だけで、頭部と同鑄している。ヘレニズム期以降は逆に唇を頭部と同鑄するのが一般的となり、[マザーラのサテュロス][Mazara]の唇も頭部と同鑄である。前150年頃の[アルンデルのソフォクレース頭部][London]で唇を銅で別鑄しているのは、クラシック期の技術に倣ったと考えられる。

 唇の表面を銅の薄板で覆うのは一般にローマ時代の特徴とされる。[ペーザロのイドリーノ][Firenze]がそうであるし、[ピオンビーノのアポッローン][Paris]ではそうした唇がその擬アルカイック性の証明の一つを構成した。

 頭部とは別に唇を鑄造する場合、その鑄造法・装着法には次の三つが認められる。

(i) 銅(鑄造済み)の唇をブロンズの頭部に装着する。これが最も一般的。

(ii) 蠟の唇をブロンズの頭部に装着し、その場で湯道・鑄型を作って銅で鑄造する。確実な事例は[タマッソスのアポッローン頭部][London]のみ。

(iii) 銅の唇を蠟の頭部に装着して、頭部全体を鑄造する。確実な事例は[リアーチェの戦士A][Reggio][クィリナーレの拳闘士][Roma](▶)。とはいえ再現実験はまだ試みられていない。

 歯──最も一般的だったのは銀だったようである。銀の歯が像内に残っているのは[デルフォイの馭者][Delphi][リアーチェの戦士A][Reggio][キュレーネーのベルベル人頭部][London]である。その他、[ペイライエウスのアルテミスA][Pireas]の歯には大理石が、[ペイライエウスのアテーナー][Pireas]には象牙が使われていた。

 目──ギリシアの大型鑄造彫刻の目は、それ以前のスフューレーラタ/木心銅板像 [Iraklion]と同様、通常はいくつかの物質で別に作って頭部に挿入していた。現存する最も美しい目は[ペイライエウスのアルテミスA]のそれだろう(▶)。白目は大理石で、涙腺はその隅に彫って象り、赤く着色している。虹彩は褐色のガラス、瞳は黒いガラス。その全体の上下を銅の板2枚で包み、その縁をギザギザに切って、睫毛(まつげ)としている。[リアーチェの戦士A]の白目は長らく象牙とされてきたが、第三次修復時に石灰石の一種と訂正された(▶)。[リアーチェの戦士B]は方解石である(▶)。目は常に像の外側から装着された。外れて失われた例が多いのはそのためである。






15 基台への据え付け


 古代ギリシアのブロンズ彫刻は基本的には石の基台に据え付けられ、多くの場合両足だけが固定されたと考えられる。まず鑄造前の蠟原型の段階で、据え付けた状態で見えない限りの大きさの穴を足の裏にあけた。そしてこの足の裏の開口に応じて基台の方にも、底の方が広がった枘穴(ほぞあな)を穿った。フォルミッリの考えでは、鑄造後、基台の上にブロンズ像を定位置に置き、足の裏と基台の間にあいた隙間を土で密閉し、枘穴に熔けた鉛を流し込んだ。鉛の入る空間を作るため、足の中の鑄造土は予め全部または一部除去された。脚に沿ってテラコッタの管を当て、脚と基台との間に僅かな隙間をつくり、粘土で隙間を塞いだ上で、管を通して基台と足の中に熔かした鉛を流し込むと、通底器の原理によって管に入れた鉛の高さだけ足の内部に鉛が入る。これが一般的と思われるが、「マフディアのエロース」の場合は両脚の側面に正方形の穴を開け、そこから鉛を流し込んでおり(▶)、ヘレニズム期にはこの方法も行われたことが分かる。現代の文献では鉛による突出部分全体を「枘」と、その一本ないし二本あるそれぞれの突出部を「蹄」(ひづめ)と呼んで区別することがある(▶)。

 古代ブロンズに残されたままの枘の鉛の分析は、鑄造土や合金の分析と同様、その遺品の由来に関し貴重な情報を提供することがある。例えば、枘として[マフディアのエロース][Tunis]の両足に流し込まれた鉛はサルディニア産と推定されるのに対し、同時発見の[マフディアのヘルメース柱]の角柱の基部に充塡された鉛はラウリオン鉱山産であるため、両像が群像として制作されたという説が否定された。

 設置後、ブロンズ表面には酸化を防ぐ表面保護剤が塗布された。プリーニウスはオリーヴ油、松脂、瀝青を伝えているが(『博物誌』34.99)、現代と同様に蜜蠟も使われたに違いない。錆の搔き落としも随時行われた。