2/I/2019


D-1  Fragments of Quadriga Group from Delphoi  デルフォイの馬車群像断片


詳細  Details


1【名称】

[デルフォイの馬車群像断片]。馬車上に立っていた馭者だけについて[デルフォイの馭者](L'aurige de Delphes)と呼ぶことが多い。

[馭者]は古典ギリシア語ではヘーニオコス(ἡνίοχος)、現代ギリシア語ではイニオホス(ηνίοχος)と言う。ただしこのブロンズの右腰の衣襞にηνι[οχος]と記されているという情報(cf. Keramopoulos 1909)は誤りである。フランス語では一般的にはコシェ(cocher)と言うが、この像に関しては発見当時発掘者(Homolle 1897 [MonPiot])が使ったラテン語アウリーガ=オーリージュ(auriga, aurige)が伝統的に引き継がれている。


2【現所在】

デルフィ、博物館。ΔελφοίΜουσείο (Delphi, Museum), inv.no.3520 (馭者の上半身), etc.

ベルリンの研究者たちが制作したブロンズ・コピーがあるが、古代の技術の再現を追求したものではない。


3【発見】

[馭者]が属していたブロンズ群像は、オモルThéodore Homolleを代表とするフランスの考古学者たち(École française d'Athènes)による発掘中、1896428日から59日にかけて、デルフォイのアポッローン神域で()、多数の断片となった状態で発見された。アポッローン神殿の西側テラス、すなわちアポッローン神殿と劇場の間の道で(Bommelaer 1991, pl.V, no.529; Chamoux 1955, pl.I-1, 2)、西はクラテーロスKraterosの壁龕(Bommelaer 1991, pl.V, no.540 =; p.225-27; fig.99)と、東は大きな石にはさまれた地点である。当時そこには現代のクーヌーピスの家maison Kounoupisが倒壊しており、その瓦礫の下に遺品が埋没していた。前373年の地震による崖崩れによって土中に埋没し、その後、擁壁イスケガオンIschegaonの中に封じ込められたと推定される。

 428日に見つかったのは、まず馭者像の下半身(inv.3484)、馬の後ろ脚一本()(inv.3485)、次いで碑文の刻まれた石のブロック()(inv.3517: Chamoux 1955, pl.II-1)、手綱の絡まった梶棒=轅/ながえtimonの断片()(inv.3542)、やはり手綱の絡まった軛/くびきjougの断片()(inv.3543)。馭者群像に関する51日の発見物は、馭者の上半身(inv.3520)、右前腕(inv.3540)、馬の後ろ脚()(inv.3538)、馬の尻尾()(inv.3541)。57日の発見物は、馬の前足()(inv.3597)、くびきのもう一つの端末()(inv.3598)。59日の発見物は、三角形のクッション()(inv.3618)。発掘の詳細は「発掘日誌」Journal de fouillesに記録された。

 オモルは59日と11日に、パリの碑文アカデミーに電報を打った(Homolle 1896 [CRAI 1])。512日には研究所長が写真2枚と碑文の転写を添えて手紙をアカデミーに送った(Homolle 1896 [CRAI 2])。65日にはオモルがアカデミーで発見について口頭発表をした(Homolle 1896 [CRAI 3])。そして早くも翌1897年には最初の学術論文が発表された(Homolle 1897 [MonPiot])。以上、Chamoux 1955, 7-8

 以後1913年までは研究者の関心はどちらかと言えば碑文に集中していたが、ブルゲ(Bourguet 1914)以降、[馭者]自体の研究が深化した。鑄造技術に関する研究はクルーゲ(Kluge 1929)が最初であるが、彼は失蠟法ではなく、木の原型と砂を使った鑄造法を想定した。ハンペ(Hampe 1941; 1960)もそれを踏襲した。これに対しすでにオモル(Homolle 1896 [CRAI 3])が像内に鑄造土と鉄の心棒の残存を認め、[馭者]が7つの分鑄部分からなることを示していたが、失蠟法によって制作されたという正しい理解を、実見に基づいて詳細に証明したのはシャムー(Chamoux 1955)である。



4【一括出土品】

(I) 馭者像を構成していた部品3つ。総高180cm

(a) 下半身(inv.3484: Chamoux 1955, pl.XII)。高さ1.28m。帯から下。帯の右部分に欠損がある。前方の帯にも小さな欠損。

(b) 上半身(inv.3520: Chamoux 1955, pl.XII)。肩に掛けた細紐(ストロフィオンστρόφιον)は別に作ってトルソに留めていた。留めていた穴が残っている。細紐は殆どが失われたが、左腋の下の後ろあたりに断片が残っている。

(c) 右前腕(inv.3540)。手に手綱を3本握った状態で出土した。もとは右側の2頭の馬に繋いだ4本の手綱を親指で抑え、丸めた手のひらを通し、下に垂下させていたはずである。この右手には何か円筒形のもの、おそらく突き棒(aiguillon: ケントロンκέντρον)を握っていたと推定される。薬指は別鑄。左前腕は失われたが、左側の2頭の馬に繋いだ4本の手綱を握っていたに違いない。 

 

(II) 少年の左腕()(inv.3535: Chamoux 1955, 47; pl.VI)。長さ47cm

腕は肩の所で、一部は身体との接合部に沿って折れている。幅の広い、柔らかく表現された紐を握るが、紐は手の中で折れている。この紐は手とは別に作られ、金属の小さな突起によって固定されている。熔接されていた薬指は失われた。薬指が別鑄なのは馭者の右手と同じであり(分鑄図)、この左腕が馭者群像に属するという論拠とされる。爪は鏨(たがね)で丁寧に形作っている。表面はかなり傷んでいる。腕の内部に灰色の鑄造土が残っている。

 馭者のそれと比べて小さく、柔らかく、手首が細く、かつては女の腕(ニュンフェー、ニーケー)と解されたこともあった(Svoronos 1897; 1903, 133; Studniczka 1907, 135)。少年の腕とする場合でも、隣接する群像に属し、一頭の馬の鞍に手を添える少年のものとする考えも提出された(Hampe 1941, 36; 42, fig.32 =復元デッサン; Fukube 1987, 126)。

 

(III) 馬の部品4つ:

(a) 左後ろ脚()(inv.3485)。高さ71cm

(b) 右後ろ脚()(inv.3538)。高さ69.5cm

 (a)(b)とも膝の関節までの高さは50cm。どちらも身体との接合部のすぐ下で折れている。膝を含みそこから下は無垢。上は中空で、一部に粉末状の灰色の鑄造土が残っている。右脚の膕(ひかがみ、jarret)の下には夜目(よめ、châtaigne)が残っているが、左脚の夜目は外れて、その跡が認められる。蹄(ひづめ、sabots)の上の毛と、蹄の上の繋(つなぎ、paturon)の後ろ側の水平の皺に、たがねが施されている。Chamoux 1955, 40; pl.III-1, 2, 3; Rolley 1990, 289, fig.3-4.

(c) 左前足()(inv.3597: Chamoux 1955, 40; pl.IV-1, 2, 3)。高さ29.8cm。蹄sabot、繋paturon、球節(きゅうせつ、boulet)、および管(くだ、canon: 球節と前膝の間)の一部が残っている。蹄の下面の穴には、基台に固定するための古代の鉛が少し残っている。繋の左前の所に長方形の嵌金がある。

(d) 馬の尻尾の一部()(inv.3541: Chamoux 1955, 42; pl.V.1, 2)。長さ41.5cm。ギリシアの当局者の処置により、錆パティナが除去された(Chamoux 1955, 42)。付け根に近いところと先端が、折れている。ほぼ身体に熔接されていた箇所で折れているが、切れ目は不規則。上方外側の受け皿は、身体との熔接を確実にするための枘穴かも知れない。内側の2つの嵌金は鑄造不全箇所を隠すための処置である。全体にたがねで毛が彫られているが、左側には彫られていない箇所がある。

 シャムーによれば、以上4点はすべて右内側の馬に属していたと推定される。左前足()(inv.3597)は基台(inv.3517)の穴C)に完全に適合する。両後ろ脚の中では、左脚()は後ろに、右脚()は前に位置していたことが、表現の違いから分かる。これは同じ側の脚を同時に挙げる側対歩で立ち止まったときの位置であり(amble sur place)、基台の穴AB)の位置関係(右脚が前)と合致する。尻尾は左側が十分入念に仕上げられておらず、かつ軽く右側に振れている。これはこの馬が右側にいたこと、および右脚を踏み出していたことを示している。穴A)が基台の縁の近いところにあるので、右外側の馬は左脚を前に置いていたことが分かり、尻尾の帰属候補から除外される。また尻尾は身体から後ろにかなり離れており、馬が不動ではなく足踏み状態だったことが分かる。Chamoux 1955, 40-41; pl.V-1, 2.

 しかし少なくとも左右の後ろ脚(ab)は同一の馬には属さない。まずけづめの毛(poils du fanon)の形が違う。右後ろ脚(b)では後ろ側の稜線が毛の先までまっすぐに続き、毛の先が鋭角をなしているのに対し、左後ろ足(a)では先に行くにしたがって内側に丸く入り込んでいる。静脈の表現も異なる。Rolley 1990, 289, fig.3-4; Chamoux 1955, pl.III.

 

(IV) 馬車charと馬の装備harnaisの小断片多数()。すべてブロンズ。Chamoux 1955, 45fig.5; Chamoux 1991, 185, fig.51f.

(a) 梶棒=轅(かじぼう=ながえ、timon)の断片1(inv.3542)。長さ42cm。厚さ4.5-5.5cm。轅は無垢。両端が折れている。まっすぐな紐が一ヶ所で熔接されて梶棒と平行に走り、別の紐が全体に四回巻き付いている。これらの紐は平ら。

(b) 軛(くびき、joug)の断片2つ(inv.3543, 3598)。inv.3543は長さ45cminv.3598は長さ19cm。これにも紐の断片が付着しているが、くびきに切れ目を入れて紐をそこに通している箇所がある。この紐の断面は丸い。

(c) 馬の肩の上から首にかけての部分に当てたクッション(coussinet de garrot1つ(inv.3618)。大きさ18x12cm、厚さ平均2cm。縁に固定する鋲のための穴が2つ開いている。実物は皮革か布でできていただろう。南ロシア出土の象牙に表されたクッションが参考になる:Pfuhl 1923 [MuZ], III, Abb.627

(d) 戦車の手すりrampeの断片2つ(inv.sine)。一つはおそらく中央の部品。T字形、長さ40cm。もう一つはおそらく側面の部品。一端が曲がっており、長さ23cm。ともに断面六角形。

 このようにして意図された戦車の復元は、大絵画()、陶器画()、浮彫、テラコッタの再現彫刻()によって可能である。

 なおシャムーが車輻(un rayon de roue)と考えたinv.10888は三脚の脚の断片である。長さ17cm。断面六角形。Chamoux 1955, 43-46, fig.5; Rolley 1990, 286, fig.1.

 

(V) 銘のあるブロック((inv.3517)Chamoux 1955, 19fig.1, pl.II.2.

前面に二行の奉納碑文を刻む。パルナッソス産石灰石。群像の礎石の一部をなしていた。上面に馬の蹄を埋め込むための穴が3つ残っている。長さ80.2cm-91.5cm、高さ29.8cm

 

(VI) その他。

373年の崖崩れによって、問題の戦車競技群像とともに土中に埋まったが、これとはおそらく関係がないと思われるもの。

(a) 男の左足1つ(inv.3563):等身大。

(b) 三脚の部品いくつか(inv.3566, 3615, 3595-3596)。

(c) 両刃の斧1つ(inv.3669)。

(d) 端末が人間の手の形になっている把手の一部(inv.3691)。

 

次のものは確実に関係がない。

(a) 馬の右後ろ脚の一部(inv.3675)。1896.5.15出土(Rolley 1990, 289n8)。Chamoux 1955, 39; Rolley 1990, 289, fig.5. 膕(ひかがみ=膝の裏側: jarret)の上下で切れている。現存高さ40cm。上部の厚さ4-7mm、下部の厚さ3-9mm。縦にひび割れがある。内面は間接鑄造法を示している。頂部の寸法は15x11cmで、群像に属する馬の脚の該当部分14x10cmよりも大きい。たがねによる仕上げが全く施されていない。モデリングはより柔軟で自然主義的で、群像よりもかなり時代が下る。Pomtow 1907, 266, no 8は誤って群像に含めた。Rolley 1990, 289.

(b) 馬の左前脚の一部(inv.1786 =10885)。「1894.7.18、神殿の外、入口の右で出土」(Rolley 1990, 289)。Rolley 1990, 289, fig.6. canonの途中から球節bouletまでの断片。現存高さ25cm。鑄造土が残存しており、上端から鉄の心棒が突き出ている。鉄棒の断面は一辺1cmの正方形に近い。厚さ6-11mm。頂部の寸法は8.2x3.9cmで、群像に属する馬の脚の該当部分6.8x3.1cmよりも大きい。技術的には群像の馬に近いが、モデリングがより固く、群像よりも早い時代に属する。Rolley 1990, 289-291.



5【[馭者]の記述】

戦車競走の群像のうち馭者だけがほぼ完全に残っている()。寛衣クシュスティス(ξυστίς)を着、胸高にベルトを締めた馭者が、両脚に等しく体重をかけて立つ。肩紐を後ろで交叉させて衣が風ではためくのを押さえている。両手には馬に繋いだ手綱を握っていたと推定される。右手はその一部を握った状態で出土したが、左手は袖口から失われた。クシュスティスの衣文は肩の部分だけは非常に細かくなっている。V字形の衿首が鋭い角を作る他は、肩紐の下では衣文はベルトの上まではほぼ左右相称に流麗な曲線を描き、ベルトの下では整然と垂下し、踝(くるぶし)のすぐ上にまで達している。ベルト以下の衣文は円柱を想起させ、事実その湾入部は21を数え、イオーニアー式円柱の溝の数20とほぼ一致する()(Chamoux 1955, 71fig.8)。

 頭部は像全体からすると非常に小さく、九頭身である。太い首に支えられた卵形の顔は、こめかみの立体的な髪房と浮彫状のもみあげによって左右を縁取られている。耳は左右とも鉢巻タイニアーταινίαの下の髪房に押されて上縁が外に突き出ている。鋭い稜線を作る眉のアーチ形の下の両目は睫(まつげ)を含めほぼ完全に残っている()。眉のアーチ形から繋がった鼻梁は太くまっすぐで、軽く開けた唇はやや大きめである。唇の間から銀の歯が認められるというが、確認できていない。滑らかな頬、力強い顎のどこにもひげはない。

 頭に巻いたタイニアーは、上下を銅による平行線で縁取り、その中央帯には銀を象嵌したメアンダー文と十字形を装飾している。髪房は項(うなじ)とこめかみだけが立体的で、それ以外、特にタイニアーの上では完全にグラフィックな表現になっており、旋毛(つむじ)を中心として波頭文ないし鎌の形の髪房を配置している()(Chamoux 1955, pl.V.3)。それぞれの髪房の回転方向は、つむじだけが5本すべて右方向で統一されている以外規則性は認められず、かなり自由である。個々の髪房の中に数本の筋を入れている。



6【寸法】

(I) 馭者:総高180cm

(II) 少年の左腕():長さ47cm

(III) 馬:

 左後ろ脚()(inv.3485)の現存高さ71cm

 右後ろ脚()(inv.3538)の現存高さ69,5cm

 左前足()(inv.3597)の現存高さ29.8cm

 尻尾()(inv.3541)の現存長さ41.5cm


7【厚さ】

(I) 馭者:8-13mm。着衣の衣襞などでは最高25mmのところがある。Chamoux 1955, 61; Charbonneaux 1958 (Bronzes), 30; Mattusch 1988, 134n50.

(II) 少年の左腕():不明。

(III) 馬の尻尾():最大15mmChamoux 1955, 42.


8【合金分析】

まだ行われたことがないようである。


9【鑄造土の分析】

鑄造土の分析はまだ行われていないようだが、残存している以上、分析結果が得られれば、デルフォイの土の基準資料となるはずである。[馭者]の鑄造土と少年の片腕および馬の断片の中に残っていた鑄造土との比較は、これらが同一のモニュメントを構成していたことを確証する証拠となりうる。少なくとも鑄造土の外観は似ているという(Chamoux 1955, 63)。

 デルフォイ出土の或る馬の脚の鑄造土かも知れない土が分析されたが(Formigli—Schneider 1993, 77-78)、これと同じ性質の土はギリシア全体に広く分布しているため、制作地の推定のためには余り役立たない。この脚が馭者群像に属していたのかどうか、所蔵番号が記されていないため不明。


10【制作技術】

(I) 馭者

おそらく間接失蠟鑄造法。従来、内面が滑らかでないという以前の観察に基づいて(Kluge 1929, 16)、おそらく直接失蠟法と推定されて来た。しかし最近は、少なくとも主要部分は間接失蠟法と考えられている(Rolley 1990, 289; Mattusch 1988, 134-135)。現在充塡されている石膏を取り除いて内面を調査することが期待される。

 主な分鑄11。分鑄図参照((1) 頭部のタイニアーから上。(2) 頭部のタイニアーから下(タイニアーを含む)。首の分鑄線は衣との境目。耳の辺りの髪房の一部は別鑄。(3) タイニアーの後ろの結び目から垂れている部分2箇所は別鑄。(4) トルソ。衿口から腰帯まで、両腕の袖先まで。(5-8) 両腕。現存する右手の薬指は分鑄・熔接。左手についても同じと仮定する。(9) 下半身:腰帯からクシュスティスの裾まで。腰帯は数点の部品からなる。(10-11) 両足。裾から約15cmの高さまで。

 

1 原型の制作〉

もしも直接法と間接法が併用されたとすれば、[マフディアのヘルメース柱][T] の角柱部分のように、比較的形状の単純なベルト以下の着衣、および或いはタイニアーの上の頭頂部に直接法が適用されたかも知れない。その場合これらの分鑄部分については鑄造原型に関わる工程〈2-5〉はなく、鉄の支持棒は〈1〉の工程の最初に来る。

 

2 牝型の制作〉

3 蠟原型の制作①:牝型の内面に蠟を張り込む〉

 

4 蠟原型の制作②:蠟原型の中に鑄造土を入れる〉

体内のいくつかの箇所に鑄造土が残っていたが、修復・洗浄の際に取り出され、現在は微細な粉の形で保存されている。現在体内の大部分には石膏が充塡されているというが、無論現代の修復時の処置である(Formigli 1984, §4, n36; Mattusch 1988, 131)。

 

5 蠟原型の制作③:蠟原型の中に鉄の支持棒を入れる〉

オモルは下半身の内部に1本の鉄の支持棒を認めた(Homolle 1896 [CRAI 3], 368-369)。現在は錆びた3つの断片となって残っているという(Chamoux 1955, 61)。

 

6 蠟原型の制作④:蠟原型の表面を蠟で仕上げ、湯口・湯道・揚がりを配置する〉

 

7 笄を配置する〉

クシュスティスの下方に現存しているようである。〈12〉参照。

 

8 外型の耐火土を付け重ね、乾燥させる〉

9 鑄型を加熱して蠟を排出し、さらに素焼き焼成する〉

10 ブロンズを流し込む〉

 

11 湯口・湯道・揚がりの切除、付着物の除去、分鑄部品の熔接〉

(a) 頭部──頭にタイニアー、鉢巻を巻いている。後ろで一巻きしただけで、結び目を作っていない。この後ろの垂れ下がった部分だけが別鑄・熔接である。垂下部分の内側の髪がたがねで仕上げられていることから、その作業の後に熔接ないし鑞付けされたと推定される。残るタイニアーは頭部の接続部を覆っており、その内側に接合線が認められる(Chamoux 1955, 60n3)。シャムーはタイニアーは頭部の上半分か下半分のどちらかと同鑄と考えているようである(Chamoux 1955, 61)。ここでは仮にタイニアーは顔の側に作られていたと想定しておく(分鑄図)。耳の前と上に突き出した髪房のうち、いくつかは別鑄である。少なくとも右側のいくつかには接続線が認められる。

 

(b) 頭部とトルソの接続は、頭部から出た首の下部を、トルソの上部の中に嵌め込んで処理している。内部では頭部の下縁が認められるというが、外からは接続線は全く認められない。シャムーはどこで接続しているか明言していないが、マットゥシュによれば三角形の襟の辺り、すなわち着衣の縁の位置で接合している(Mattusch 1988, 133-134)。これは[アゴラーのニーケー頭部][A] と同じであり、着衣像の場合の標準的な分鑄法と推測される。

 

(c) 腕──左腕が外れて失われたため、腕の接続法を観察することができる。袖先から2-3cm上の所が裾と同様に板で閉じられており、そこまで腕を差し入れて熔接(鑞付け)固定している。さらに仕切り板には中心に大きな穴が開いており、腕に作った枘(ほぞ)をそこに差し込んでいる。袖先も内側はクシュスティスの裾と同様にたがねで彫って薄くされている。右腕は袖の中にぴったり収まり、隙間は殆どない。

 右手の薬指を別鑄・熔着している。爪はたがねで精巧に仕上げている。薬指の別鑄は、おそらくその指および両隣の指(中指・小指)を完璧に仕上げるためである。手綱を握る表現から、親指と人差し指、人差し指と中指は多少離れているため、例えば人差し指を別鑄する必要はなかった。ほぼ同時代の[リアーチェA/B[R] の両足の中指の場合と同じ。

 

(d) 下半身──スカート(ないし朝鮮のチマ)に当たる部分の上端に、2-4cmの高さで帯状に、鎚とたがねでベルトの受け座を準備している。像が倒れ土中に埋まった際に、右腋に当たる部分のベルトの一部と隣接する衣襞が破損した。上半身と下半身との接続は、上半身の下端の縁を予め内側に軽く曲げて鑄造し、下半身の上端の縁(厚さ1cm以下)の中に嵌め込み、さらに熔接している。その上に厚さ2-3mmのブロンズ板によるベルトを、接続部を覆うように装着して、熔接を補強している。ベルトはいくつかの部品を継ぎ合わせたもので、特に後ろの左下の手直し、上縁の付加修正が目立つ。地上に立っていたときにすでに一度破損し修繕されたのかも知れない。土中に埋もれた際にブラウス(胸部)側あるいはスカート(下半身)側に分離付着して残った。

 

(e) 両足()(Chamoux 1955, pl.XX)──裾の下の方の内部、縁からおよそ15cmほどの高さの所にブロンズの板を渡し、そこに二つの大きな穴を残して両足を熔接している。見えない部分なので熔接はきわめて杜撰だが、きわめて堅固。足の上縁を広げて熔接し、さらに雑に切ったブロンズの断片を接続部に当てて熔接し、固定している。

 

12 不完全部分の補修、細部の彫り、表面の仕上げ〉

(a) 全体──気泡は方形(正方形・長方形)のブロンズの嵌金で補修している。シャムーによれば、特にクシュスティスの下の方の微細な気泡については、「断面矩形のブロンズの釘を打ち込んで塞いでいる。その内側には鑄造土があったため、釘の先は断ち切られていない」(Chamoux 1955, 64)というが、これはおそらく鑄造時の笄(固定釘)であろう(cf.Mattusch 1988, 134)。

 

(b) 頭部──タイニアーの中央には単純なメアンダー(マイアンドロスΜαίανδρος)文が走り、その凹部に一つずつギリシア十字を配し、メアンダー文の上下を線で枠づけている。上下の二本の線には銅、メアンダー文とギリシア十字には銀の象嵌を施している(Chamoux 1955, 53, fig.6)。

 眉毛はたがねで彫っているとも(Chamoux 1955, 65)、別鑄して装着されたともされる(Bol 1978, 90)。

 頭髪などの毛は精巧にたがねで仕上げられている。もみ上げ、別鑄の髪房も。タイニアーの上の頭髪は上に行くほど彫りが疎(おろそ)かになっている。

 

(c) 上半身──クシュスティスの上から襷(たすき)状に掛けた紐が装着されていたが、失われた。この紐は碑文などではストロフィオンστρόφιονと呼ばれている(Thompson 1944, 197)。袖、ベルトの下など、小さな衣襞ほど入念にたがねが入っている。

 

(d) 下半身──クシュスティスの裾の縁は、鑄造後1-2cmの高さまでたがねで斜めに彫り取ってあり、縁は刃のように薄く鋭くなっている。裾の底板がどのように作られているのかを調べるためには、修復の際に充塡された石膏を除去する必要がある。

 なお衣襞の下端では衣襞の数は21で、イオーニアー式円柱の溝の数20とほぼ同じである(Chamoux 1955, fig.8)。

 

13 着色、鍍金〉

痕跡なし。

 

14 乳輪・乳首、唇、歯、目の装着〉

唇──シャムーによれば、両唇の表面には銅の薄板をかぶせているようである。しかし[アルテミーシオンのゼウス][A][リアーチェA[R] と同じように、唇自体が銅で別鑄・装着された可能性の方が大きい。すでにラ・コスト・メスリエールはそのように考えた(La Coste-Messelière—Miré 1943, 327)。

 

歯──実見でも写真でも確認できないが、4本の歯には銀の薄板をかぶせて歯の白い輝きを表現しているという(Homolle 1897, 195n4; Houser 1987 [AJA], 300-301; Rolley 1990, 287; Rolley 1994, 346)。もしそうなら[リアーチェA]と同じ技術である。シャムーはこれを「唇の内側にそのための熔接材と思われる明色の金属の薄板が認められる」としたが(Chamoux 1955, 52)、誤りである(Rolley 1990, 287)。口の中に、アーチ形をした鉛の部品が装着されていたという(Chamoux 1955, 61, fig.7)。歯の固定が目的だったと思われる(cf.Rolley 1990, 289n7)。

 

目──まつげはブロンズ板を鋸歯状に切って目の上下に装着している()。眼球は例外的に完全に残っている。白目部分が白色の物質、虹彩は明るい栗色の物質、虹彩の周囲に黒い環があり、瞳は黒い(Chamoux 1955, 53)。眼球を構成する物質はまだ特定されていない。マットゥシュは、シャムーによれば「白目は白い練りガラス、虹彩は褐色の物質、瞳孔は黒い縞瑪瑙(onyx)」としているが(Mattusch 1988, 130n36: Chamoux 1955, 53 [sic])、そのような記述はない。

 

15 基台への据え付け〉

両足の底には、戦車に固定するための鉛の枘が突き出ていたが、発見時に残っていたのは左足前方の一つだけである()(Chamoux 1955, pl.II.1; Picard 1939, 907, fig.365)。枘の断面が正方形であるのは不審である。発見後に形を改めたのではないか。修復の際足裏の穴を鉛で塞ぎ、長い鉄のボルトを各足二本ずつ体内まで突き入れ、六角形のナットで締めた。

 

(II) 少年の左腕(

今は失われたが、薬指を別鑄・熔接していた。これは[馭者]の右手と同じ作り方であり、両者が同一の群像に属していたことの根拠に数えられるかも知れない。目的は手綱の固定と考えられる。腕の内部に灰色の鑄造土が残っている。

 

(III)

現存部品の中では、少なくとも左後ろ脚()(inv.3485)と尻尾()(inv.3541)は分鑄(Chamoux 1955, 42)。詳細は「一括出土品」参照。

 

現在では完全に淘汰されたとはいえ、研究史上多大の影響を与えたクルーゲの木型鑄造説をここに要約しておくのも意味のないことではないだろう。

 《[馭者]は蠟を使わず、木を原型=鑄造原型とする木型法で作られた。──分鑄部品を砂に押しつけて二枚合わせの牝型を作り、牝型の間に中型と支持棒を宙吊りにして入れ、そして中型と牝型の間にブロンズを流し込む。──その根拠として、ブロンズの内面が外の凹凸を全く反映していないこと(従って間接失蠟法ではない)、およびブロンズの厚さが失蠟法にしては厚すぎること(従って直接失蠟法でもない)が挙げられる。木の原型はトルソが一つ、両足を含む下半身が一つ。両腕。頭部についてはタイニアーの上と下で分け、その他タイニアー、両耳、髪房、首も分けて木で原型を作り、鑄造した。同時出土した少年の左腕、および馬の後ろ脚と尻尾は失蠟法で鑄造されているから、[馭者]とは別の後代のモニュメントに属していたと考えられる。》(Kluge 1929, 16-20

 クルーゲは古代ギリシアの鑄造法の歴史を、アルカイック期は蠟を使わない木型法、クラシック期は直接失蠟法、ヘレニズム期は間接失蠟法、ローマ時代は砂型法、と規定していた(Kluge 1927; 1929; cf. Formigli 1984, 136n1)。[馭者]に関する見解もこれに沿ったもので、クラシック初期にはまだアルカイック期の技法が残っていた、と考えるわけである。【制作技術】参照。なお、多少の改変を施しながらも基本的にはクルーゲに従ったに過ぎないカッソン(Casson 1933, 155-157)、ハンペ(Hampe 1941; 1960)などの考えについては省略する(cf. Mattusch 1988, 132)。



11【復元】

 群像の配置は、ただ一つ残された礎石ブロックの与える手掛かりから推定が試みられている(Chamoux 1955, 25, fig.2)。以下、右左(みぎひだり)は馭者から見た左右(さゆう)で統一して記す(Chamoux 1991, 181, fig.E =)。

 ブロックは、その両側面に水平に浅い2本の溝を彫って、隣接ブロックと連結していた Chamoux 1955, 19, fig.1 =: 左上:ブロックの左右の溝。右上:断面図)。上面に3つの円筒形の穴があり(ABC)、そこにブロンズの馬の鉛製の足枘を埋め込んで固定していた。発見後博物館員が、円筒形の土台を新しく作って、馭者をその上に展示することを思い着き、それを埋め込むためにこのブロックの中央に円形の大きな穴を穿ったため、3つのうち真ん中の穴Bは失われた(Chamoux 1955, 19, fig.1, B)。

A, Cは馬が見る者の方を向いて立てた前足の蹄に適合する。事実、形・大きさとも、現存する左前足と一致する。ギリシアの他のブロンズ製四頭立て馬車のための礎石と比較すると、このブロックには、右外側の馬の左前足(A)と、轅に繋がれた右内側の馬の両前足(BC)が乗っていたことが分かる。

 陶器画や浮彫で、静止した或いは前進している四頭立て馬車を描く際、外側の二頭の馬を轅に繋がれた二頭よりもやや前にずらしている。内側の二頭は軛(くびき)によって轅(ながえ)に繋がれているのに対し、外側の二頭は顔だけしか繋がれておらず、より動きが自由である。

 右隣のブロックにはその左端に右外側の馬の右前足が乗るだけなので、あとの空間には若い馬丁を立て、右外側の馬の轡morsまたは鼻勒muserolleに繋いだ紐をその左手に持っていたと推定される。紐を握った少年の左腕(inv.3535)は、この馬丁(ヒッポコモスἱπποκόμος, valet d'écurie, palefrenier)のものである。シャムーは、馬丁は競技の終わった馬を牧場のある囲い地paddockに連れて行くところと解している。

 しかし馬丁は右手で馬を牽くのが原則であることから、馬丁は左右に二人いて、左右相称を構成していた可能性がある(Homolle 1897, 191; Rolley 1990, 391-2, fig.7; Rolley 1994, 346, fig.360 =)。シュラークーサイSyrakousaiの僭主ヒエローンHieronはオリュンピアOlympiaにおける3度の優勝を記念して、オリュンピアーに、男が一人乗った四頭立ての馬車一台と、その左右の、少年が一人ずつ乗った二頭の馬とからなる群像を制作させていたが、彼が死んだときにはまだ完成しておらず、息子のデイノメネースDeinomenesがこれを奉納した(Paus. 6.12.1; 8.42.8)。3度の勝利とは、前476年と前472年の乗馬競走と、前468年の四頭馬車競走である。中央の戦車によって1度の四頭馬車競走における勝利を、二頭の馬によって2度の乗馬競走における勝利を表しているわけである。プリーニウスはオリュンピア競技に関して「3度優勝すると肖像が作られた」と記しているが(Plin.34.16-17)、ピューティアPythia祭にもその原則が適用されたのかも知れない。

 [馭者]群像の場合、少年馬丁は馬には乗っておらず、現存する左手は、馬の右横に立って轡の手綱(bride de mors)を握っていたと考えられる(Homolle 1897, 191; Rolley 1990, 392)。

 

 馭者の隣に戦車の所有者ポリュッザーロスPolyzalosが立っていたとする研究者が多い(Homolle 1897, 190; 1920, 339; Keramopoulos 1909, 60; Bourguet 1914, 227; Poulsen 1920, 226; Hafner 1938, 83; Charbonneaux 1938, 79; Picard 1939, 136)。しかし古代文献、とりわけパウサニアースPausaniasに出てくる戦車競走勝利者像のリストを作ってみると、所有者を伴うタイプが統計的に多いわけではない(Chamoux 1955, 54; Hafner 1938, 10)。

 

*(1) 馭者だけ

エウアゴラースEuagorasの戦車(Paus. 6.10.8)。上記ヒエローンHieronの戦車(Paus. 6.12.1)。カラミスKalamisとプラークシテレースPraxiteles作の戦車(Plin. 34.71)。

(2) ニーケーだけ

ティモーンTimonの戦車(Paus. 6.12.6)。ランポスLamposの戦車(Paus. 6.4.10)。

(3) 馭者またはニーケーと、戦車の所有者

クレオステネースKleosthenesの戦車(Paus. 6.10.6)。クラティステネースKratisthenesの戦車(Paus. 6.18.1)。

(4) 戦車の所有者が戦車の脇に立つ

ランポスLamposの戦車(Paus. 6.4.10)。キュニスカKyniskaの戦車(Paus. 6.1.6)。

(5) 戦車の上には誰もいない

ポリュペイテースPolypeithesの戦車(Paus. 6.16.6)。キュニスカKyniskaの戦車(Paus. 5.12.5)。ともに小型。

 

 結局、隣に立つ人物がいた可能性を示唆する物証が何一つない以上、馭者は一人で乗っていたと考えるのが妥当である。

 

 戦車競技が終わって四頭の馬が速度を緩め、立ち止まる瞬間が捉えられているのだろうか。しかしクシュスティスも馭者の身体も全く動きがなく、激しい運動の後とはとても考えられない。頭に巻いた鉢巻はポリュクレイトスPolykleitos「ディアドゥーメノスDiadoumenos」(▶)の場合と同じく、勝利の印ではない。勝利者に与えられるのは葉冠だけである(cf. Rolley 1990 [II], 35)。おそらく出走する前の静止した瞬間が捉えられている。馬丁が別の馬を牽いているのは、前述のように別の競技における勝利を表すと考えられる。

 像が両足から頭部にかけて徐々に右回転を示すのは、そちらから出走の合図が送られるのを待っている、或いは観衆の方を向くためと解される。オリュンピアーのゼウス神殿の東破風における、オイノマーオスOinomaosおよびペロプスPelopsの戦車競争の前の緊迫した状況と同じい。厳格様式時代に特徴的な場面選択である。

 進行方向の基軸は馭者の両足の中心線と考えるべきである()。馭者は基軸に対して下半身・上体・頭部を段階的に螺旋状に回転させ()、その視線を45˚ほど右に向けている()(Rolley 1990, 295, fig.8; cf. Chamoux 1991, 181, fig.E: 30˚)。身体の段階的な回転は前460年前後の[リアーチェA[R] にも認められるが、このモチーフは前440年前後の[リアーチェB[R] には欠けている。

 その視線の先にあるのが合図を送る審判者、ないし歓呼を送る人々(Picard 1939, 136; Chamoux 1955, 55)であれば、[クィリナーレの拳闘士][R] と同じモチーフである。[拳闘士]の場合は試合の後だが。ともに顔を左ではなく右に向けているのは、右が吉祥の方向だったためだろう。馭者の視線の先、アポッローンApollon神殿の後方に何かが置かれていた可能性も考えられる。

 今は戦車も馬も失われたため馭者の全身を見ることができるが、もとはどれだけ視線を遮られただろうか。遮蔽物は戦車の踏み台の前方中央に立ち上がる、両手で捕まることができる部分だけだが、その形によって変わってくる。陶器画などではかなり幅が広くなっている例もあるが、ロレの復元図ではほとんど一本の棒に過ぎない()。

 馭者と少年馬丁との関係は、オリュンピアーのゼウス神殿の東破風における、オイノマーオスおよびペロプスと、座り込んで足をいじっている裸の少年馬丁との関係に等しい。緊迫と弛緩、危険と平安、壮年/青年と少年、といった様々な対照が意図されている。



12【様式上の比較例】

作者についてはこれまで多くの名が候補に挙げられてきた。

クノッソスのアンフィーオーン。Knossos, Amphion: Svoronos 1903+; Studniczka 1907; Lechat 1908; Amelung 1922.

レーギオンのピュータゴラース。Rhegion, Pythagoras: Mahler 1900; Duhn 1906; Pomtow 1907; Pfuhl 1926; La Coste-Messelière 1941.

アイギーナのグラウキアース。Aigina, Glaukias: Keramopoulos 1909.

アイギーナのオナタス。Onatas: Launay 1913.

アテーナイのカラミス。Kalamis: Six 1915; Gardner 1926.

マグナ・グラエキアのイオーニア系の彫刻家。Homolle 1921; Hafner 1938.

東シチリアの彫刻家。Poulsen 1937.

アッティカ、クリティオスの工房の作。Chamoux 1955.

なおテスピアイのソタダスへの帰属は(Thespiai, Sotadas: Furtwängler 1907; Hampe 1941; Lippold 1950)、無関係な礎石の碑文に基づく推定であり、除外される。

 

いずれにせよ厳格様式(前480-450年頃)への帰属を疑う者はいない。頭部の様式的年代比定に資する遺品を挙げる。

(1) クリティオスKritios作「クリティオスの少年」(Athine, Akropolis Mus. inv.698)。大理石。前479-475年。卵形の顔、眉から鼻梁にかけてのカーヴ、目の形、鼻と口の間の線、口の下のくぼみなど、[デルフォイの馭者]の基本的な特徴は「クリティオスの少年」にすでに現れている。Richter 1970, fig.568 =頭部; Stewart 1990, fig.220 (490-480); Hurwit 1989, fig.9-15 (479-475)

*(2) クリティオスとネーシオーテースNesiotes作「ハルモディオスHarmodiosとアリストゲイトーンAristogeiton」。大理石。アンテーノールAntenorによる先行作は前509年以後、クリティオスとネーシオーテース作のものは前477/6年。若いアリストゲイトーンの顔立ちが近い()(Stewart 1990, fig.231 =頭部)。

*(3)「ブレッシャのアテーナー頭部」。1828年、ブレッシャのチドネオ丘Colle Cidneoの斜面で出土。現ブレッシャ(Brescia, Museo Santa Giulia, MR2)。ギリシア産大理石。紀元1世紀。Dörig 1969, pl.28; Giuliano 1984, 299fig.4-5 (=); Brescia 1998, 34 (=). 頭部の髪が表現されておらず、もとは兜をかぶっていた。ブレッシャのカピトリウムにあった神殿に立てられていた礼拝像の一部だったと推定される。原作については二説があり、フェイディアースの「アテーナー・ホペ」、または、アテーナイ人がマラトーンにおける戦勝を記念して前460-450年頃にデルフォイのアポッローン神殿に立てた群像(Paus.10.10.1: Overbeck 1868, Nr.633)に属していた。

 顔を斜め右に傾けている。卵形の顔、鼻梁の線、口もと、こめかみの立体的な髪などが似ている。

(4) ミュローンMyron作「ディスコボロス」Δισκόβολος。大理石。原作は前450年頃と推測されている。ローマにあるローマ・コピー「ランチェッロッティのディスコボロス」が原作に近いとされる("Lancellotti" Discobolos: Roma, Museo Nazionale Romano, inv.126371, 高さ155cm: Stewart 1990, fig.300; Dontas 1984, 283fig.8 =頭部])。顰(しか)めた眉の表現に多少写実性が認められるが、全体の顔立ちは近い()。

 

 上記比較例は[デルフォイの馭者]の年代として大体前480-450年頃を指示している。

エトルリアで作られたブロンズも比較例に数えることができるが、年代は確実に異なる。

(5)[トーディのララン][V]。前400年頃。こめかみの立体的な髪が似ている。



13【着衣】

クシュスティス(Rich, s.v. palla: ξυστίς πέπλος)。聖地での競技は裸で行われるのが原則だったが、馬車競技の馭者はこの長い衣の着用が許されていた。両肩が腕に沿って縫われているのは、ギリシアにおける衣の着用法としてはきわめて稀である。


14【碑文】

礎石ブロックに刻まれた碑文()は二行からなり、二行とも左右が失われている。いずれもヘクサメトロス二つのうちの後半が残っている。一行目はもと別の文言が刻まれていた(第一碑文)のを削り取って、新たに記された(現存第二碑文=in rasura)。

 

第一碑文

              […Γ]έλας ἀνέ[θ]εκε[ν] ἀ[ν]άσσ[ον]

                […τ]ὸν [εξ’, εὐόνυμ’ Ἄπολλ[ον]

現存第二碑文

              […Π]ολύζαλός μ’ ἀνέθηκ[εν]

              […τ]ὸν [εξ’, εὐόνυμ’ Ἄπολλ[ον]

 

標準的な書法にすると

第一碑文

              […Γ]έλας ἀνέ[θ]ηκε[ν] ἀ[ν]άσσ[ων]

              […τ]ὸν ἄ[εξε εὐώνυμε Ἄπολλ[ων]

現存第二碑文

              […Π]ολύζαλός μ’ ἀνέθηκ[εν]

              […τ]ὸν ἄ[εξε, εὐώνυμε Ἄπολλ[ων]

 

現在一般に受け入れられているシャムーによる復元(Chamoux 1955, 31)によれば、

第一碑文:《デイノメネースの息子、ゲラー王ポリュッザーロスが、私を記念物として捧げた。彼を栄えさせよ、讃えられるアポッローンよ。》

              [Μνᾶμα Πολύζαλός με Γ]έλας ἀνέ[θ]εκε[ν] ἀ[ν]άσσ[ον,]

              [υἱὸς Δεινομένεοςτ]ὸν [εξ’, εὐόνυμ’ Ἄπολλ[ον.]

現存第二碑文:《デイノメネースの息子、馬たちによって勝ったポリュッザーロスが、私を捧げた。彼を栄えさせよ、讃えられるアポッローンよ。》

              [Νικάσας ἵπποισι Π]ολύζαλός μ’ ἀνέθηκ[εν,]

              [υἱὸς Δεινομένεοςτ]ὸν [εξ’, εὐόνυμ’ Ἄπολλ[ον.]

 

当初の文言の復元(Γέλας)に基づいて、銘にある奉納主ポリュッザーロスΠολύζαλοςはシケリアーΣικελία(シチリア)のゲラーΓέλαの人と推定される。両文言の違いは実質的に「Γέλα王」という文言の有無だけであり、碑文の改竄はΓέλαの歴史と関わっている。

 Γέλαの僭主デイノメネースΔεινομένηςには4人の息子があった:ゲローンΓέλων、ヒエローンἹέρων、デイノメネースΔεινομένης、トラシュブーロスΘρασύβουλος=別名「若いデイノメネース」)。Πολύζαλοςはこの4人兄弟のうちのΔεινομένηςの別名である。以下、4兄弟とΓέλαをめぐる史実を年表の形で示す。

 なおオリュンピアOlympiaとピューティアPythiaはそれぞれ4年に1回、2年ごとに交互するように開催され、ネメアNemeaとイストゥミアIsthmiaの競技会は2年に1回開催された。

 

688 クレーター人とロドス人によってゲラーGelaの町が創設される。前6世紀にはGelaは植民市アクラガスAkragasを創設。

491 ゲローンGelon、おそらくこの年Gelaの僭主となる。AkragasのテローンTheronと同盟を結び、その娘デーマレーテーDemareteと結婚。Theronと共にシケリアー西部でフェニキア人と戦う。

490 ピューティアの馬車競走の優勝者はAkragasのクセノクラテースXenokrates

488 Gelon、オリュンピアの四頭立て馬車競走で優勝。

486 ピューティアの馬車競走の優勝者はおそらくAthenaiのメガクレースMegakles

485 Gelon、シュラークーサイSyrakousaiの僭主となり、多くのGela人を移住させる。ヒエローンHieronGelaの僭主になる。

482 Hieron、ピューティアの乗馬競走で優勝か(第1回)。

480 GelonHimeraの戦いでカルターゴーKarthagoを破り、シケリアーの覇権を掌握。

*478 Hieron、ピューティアの乗馬競走で優勝か(第2回)。ピューティアの馬車競走における優勝者は不明。ポリュッザーロスPolyzalosが優勝した可能性もある。Gelon歿(僭主在位は前491-478年)。Hieronが跡を継いでSyrakousaiの僭主となる。Polyzalosは軍の統率者となり、Gelonの妻Demareteと結婚する。これはAkragasTheronの娘。HieronPolyzalosの人気を妬んでこれを殺そうとする。Polyzalosは義父Theronのもとに逃げ、Theronは両者を和解させる(前476/5年)。これ以後Polyzalosは文献に現れない。

476 Hieron、オリュンピアの乗馬競走で優勝(Pindaros, O.1)。

*474 この年のピューティアの馬車競走における優勝者は不明。一般にはおそらくこの年にPolyzalosが優勝し、馭者群像を奉納したと推定されている:第一碑文(Chamoux 1955)。奉納像は次回の競技までに完成していなければならないので、その場合制作年代は前474-470年。

Hieron、クーマエCumaeと同盟してエトルリア軍を破る。

472 HieronTheronの後継者、AkragasのトラシュダイオスThrasydaiosを破る。

*470 Hieron、ピューティアの馬車競走で初優勝。これはDelphoiにおける彼の3度目の優勝。この機会に馭者群像が奉納された可能性がある(Rolley 1990)。碑文にある通りPolyzalosがこれを奉納したとすれば、前466年のHieronの死後、前466-465年のGelaにおける僭主制打倒の前しかあり得ない。しかし奉納像は次回の競技までに完成していなければならないので、この場合制作年代は前466年に限定される。

*467/6 おそらくこの年の初夏(ピューティア祭の前)Hieron、アイトナーで病歿(僭主在位前478-466年)。ギリシアのパンヘレニックな競技祭と詩人たち(バッキュリデースBakkhylides、ピンダロスPindaros、シモーニデースSimonides、クセノファネースXenophanes、アイスキュロスAiskhylos)の庇護者だった。Hieronはオリュンピアにおける3度の優勝を記念して、オリュンピアーに、男が一人乗った四頭立ての馬車一台と、その左右の、少年が一人ずつ乗った二頭の馬とからなる群像を制作させていたが、彼が死んだときまだ完成しておらず、息子のDeinomenesがこれを奉納した(Paus. 6.12.1; 8.42.8)。3度の勝利とは、前476年と前472年の乗馬競走と、前468年の四頭馬車競走であり、上記の群像にそのことが表現されている。その碑文から、HieronDelphoiでも3度優勝したことが分かる。前482年と前478年(推定)の乗馬競走と、前470年(確実)の四頭馬車競走である。

 トラシュブーロスThrasyboulosが僭主となる。しかしGela市民は、Syrakousai人の援助を得て僭主Thrasyboulosを倒し、僭主制を廃止(前467/6または前466/5年)。おそらくその後、いつのことか明確にはできないが、Gela市民が第一碑文の「Gela王」という文言を削除した=第二碑文。

456 AiskhylosGelaで歿。

406/5 GelaKarthagoによってシケリアー南東部の他の都市国家と共に破壊される。これは[ポルティチェッロ][R] に関わる。




15【意味】

[デルフォイの馭者]を含む馬車群像は、デルフォイで開催されたピューティア祭の四頭馬車競走で優勝したことを記念して、その馬車の所有者がデルフォイのアポッローン神域に立てた奉納像である。その制作をめぐる歴史的状況については、3つの可能性が考えられる。

 (1-2) おそらく前474年に、デルフォイで開催されたピューティア祭の四頭馬車競走で、シケリアーの都市国家ゲラーの僭主ポリュッザーロスが優勝した(推定)。ポリュッザーロス自身が、戦車群像をデルフォイのアポッローン神域に奉納し、出土地付近に設置した(Chamoux 1955)。この場合制作年代は前474/3-470/69年。

 ただしポリュッザーロスは前478年にも同地の同競技で優勝した可能性があるため、制作年代も前478/7474/3年だったかも知れない。一般の概説書で「前478年または前474年」と記されているのはこの二種の推定に従ったものである(e.g. Boardman 1991 [GSCP], fig.34; Fuchs 1993, Abb.380)。文献上にポリュッザーロスが現れる最後は前476/5年であり、その後の生死は不明であるため、そのことを重視するなら制作・奉納年代はむしろ前478/7-474/3年の方が可能性が大きいことになる。

 (3) 470年に、シュラークーサイの僭主ヒエローンが、ピューティアの馬車競走で初優勝した(確実)。これはデルフォイにおける彼の三度目の優勝であり、おそらくこの機会に馭者群像が奉納された。この場合にはヒエローンの、ピューティアにおける過去2回の乗馬競走優勝(前482、前478年)の意味も合わせて表現されていることになる。碑文にある通りポリュッザーロスがこれを奉納したとすれば、前466年のヒエローンの死後、前466/5年のゲラーにおける僭主制打倒の前しかあり得ない(Rolley 1990)。すなわちこの場合制作年代は前466年。

 この仮説(3)の特徴は、戦車を牽く四頭の馬の左右にあった独立した二頭の馬の意味を考慮に入れている点にある。しかしポリュッザーロスがこの年まで生きていたことは証明されていない。ヒエローンの死後ポリュッザーロスではなくトラシュブーロスがゲラーの僭主となったことは、その可能性を小さくするのではないか。とはいえ逆に、ポリュッザーロスが前466/5年にすでに死んでいたという確実な証拠もない。

 いずれにしても現存する馭者像は、優勝した四頭馬車の所有者すなわちポリュッザーロスないしヒエローンの肖像では決してない(cf. Pind.P.5)。実際に競技に優勝した馭者の肖像でもなく、「競技に優勝した馭者」の理想像を表現していると考えられる。

 

5世紀に馬と騎兵の活躍が顕著な地域はスパルタ、ボイオーティアー、テッサリアー、シケリアー、マグナ・グラエキアである。ハフナーが戦車競走の勝利者像のリストを作っているというが、未見(Hafner 1938, 83ff.)。ピンダロスの競技祝勝歌(ἐπινίκια)を一瞥すると、乗馬競走と戦車競走の優勝者はシケリアー人が圧倒的に多い。彼が前476年にシケリアーに渡ったという仮説は最近疑問視されているが、いずれにせよ試みにリストを作ると(シケリアー人に*印)、まさに[デルフォイの馭者]を取り巻く環境である。

(1) 乗馬競走

*シュラークーサイのヒエローン(Hieron, Syrakousai):前476年(Pind. O.1)。

*アイトナーのクロミオス(Aitna, Chromios):前476年 (Pind.N.1)。ヒエローン配下の戦士。アイトナーはヒエローンが建設。

(2) 戦車競走

*アクラガスのクセノクラテース(Akragas, Xenokrates):前490年(Pind. P.6)。アクラガスの僭主テローン(Theron)の兄弟。

アテーナイのメガクレース(Athenai, Megakles):前486年(Pind. P.7)。アテーナイの政治家。

テーバイのメリッソス(Thebai, Melissos):前476?年(Pind. I.3-4)。

*アクラガスのテローン(Akragas, Theron):前476年(Pind. O.3; O.2)。

*アイトナーのクロミオス:前473年(Pind. N.9)。前出。ネメアではなくシキュオーンのアドラーストス(Adrastos)競技会。

*アイトナーの(=シュラークーサイの)ヒエローン:前470年(Pind. P.1)。この機会に[馭者]群像が奉納された可能性がある。上記仮説(3) 参照。

テーバイのヘーロドトス(Thebai, Herodotos):前470Pind. I.1)。

キュレーネーのアルケシラス四世(Kyrene, Arkesilas IV):前462年(Pind. P.5; P.4)。

*カマリーナのプサウミス(Kamarina =南シケリアー, Psaumis):前452年(Pind. O.4)。プサウミスの伝記は不明。

 

 碑文以外にも[デルフォイの馭者]群像自体に、ゲラーないしシュラークーサイ、あるいはシケリアーという意味が表現されていた可能性が考えられる。土地に関わりのある神話上の人物、あるいは楯のエピセーモンἐπίσημονのような符丁が、戦車に描かれていたのだろうか。シチリア産の馬の特徴というものがあったとすれば、それも利用されたことだろう。



16【総合的考察】

おそらく前478-473年、または前474-469年、あるいは前466年に、デルフォイDelphoiで制作された。最大で13年の開きがあるが、どの仮説に従っても厳格様式の年代に収まり、様式的に矛盾しない。いずれにせよ前466年以前にポリュッザーロスPolyzalosによって奉納された(terminus ante quem)

 筆者は今のところ、「様式上の比較例」で述べたように、前477/6年に制作されたクリティオスKritiosとネーシオーテースNesiotes作「ハルモディオスHarmodiosとアリストゲイトーンAristogeiton」のアリストゲイトーン()が、原作の制作年代の分かっている遺品としては[馭者]に最も近いと考えている。誰が作ったにせよ制作地は無論デルフォイのアポッローン神域である。前373年の地震による崖崩れによって土中に埋没し、その後擁壁の中に封じ込められた。


17【主要文献】

Chamoux 1955: François Chamoux, L'Aurige de Delphes (Fouilles de Delphes IV, 5), Paris 1955; 1989.

Rolley 1990: Claude Rolley, «En regardant l'Aurige», BCH, 114, 1990, 285-297.

Bommelaer 1991: Jean-François Bommelaer, Guide de Delphes. Le Site, Paris 1991.

Chamoux 1991: François Chamoux, «L'Aurige», Guide de Delphes. Le Musée, Paris 1991, 180-186.