28/I/2020
[*サン・マルコの獅子](Leone di S. Marco)。「ヴェネツィアの獅子」。
ヴェネツィア、パラッツォ・レアーレ(Palazzo Reale)に近い円柱(広場から海に向かって左側)の上。所蔵番号不明。
右前足の先から左後ろ足の先まで 290cm
右前足の先から尻尾の先まで 440cm
頭頂部までの高さ 193cm
翼の最高部までの高さ 226cm
両翼の最大幅 160cm
両前足の最大幅 105cm
両後ろ足の最大幅 110cm
重さ(内部のブロンズ支持棒と、足から身体まで充塡されたセメントを含むのであまり意味はないが) 2800kg =2.8t
「サン・マルコの獅子」関係の事項を年表の形で示す。ローマ数字(ⅡⅢ‥)は「獅子」自体が改変された時期。Ⅰはオリジナルの制作時期。
Ⅰ 前300年前後──制作(第1段階)。
おそらくセレウコス朝シュリアー、キリキアー地方のタルソス(Tarsos)で、戦争の神サンドン(Sándon)が有翼の獅子の上に立つ像として作られた。
Ⅱ 古代末期またはビザンティン時代──改変(第2段階)。
翼を除去。意味の変化。
Ⅲ 1100年またはそれ以前──改変(第3段階)。
翼を復活。
12世紀、キリキアー地方のタルソスTarsosまたはアイガイAigai(小アジア南東岸)から、ヴェネツィアに運ばれる。
1172年、防波堤(Molo)に2本の円柱を立てる。高さ約15m。
おそらく12世紀末、パラッツォ・ドゥカーレ側(サン・マルコ広場から見て左側)の円柱の頂きに「獅子」を設置。
1204年、第4次十字軍の末期、ヴェネツィア軍がコーンスタンティノポリス(ビューザンティオン)のミリオン(競馬場)から「馬」を掠奪して持ち帰る。
Ⅳ 1293年──「獅子」の大規模な修理(第4段階)。
1329年、もう一本の円柱の頂きに聖テオドールス(San Teodoro)の像を設置。ヴェネツィアの守護聖人。
1786年10月、ゲーテ、ヴェネツィア訪問。『イタリア紀行』に「馬」について記す。
1797年──ヴェネツィア共和国(Repubblica di Venezia: Serenissima)崩壊。ナポレオン軍が「馬」と「獅子」をパリに持ち去る。「獅子」は円柱から下ろす際に破損。「獅子」のあった位置には、ペローゾGiambattista Pelosoの手になる代わりのブロンズ製獅子が置かれた。暫定自治政府は旧体制の象徴であるマルコ=獅子像を徹底的に破壊し、この像もすぐに鑄熔かされた。「獅子」が運び去られたのはむしろ幸運だったと言える。「獅子」はパリでは両後ろ脚の間に尻尾を入れる服従のしぐさに改変され、アンヴァリッド病院の前の角柱の上に設置された。
Ⅴ 1815-16年──1815年、「馬」と「獅子」がパリから返還された。「獅子」はパリで下ろす際に落下・大破し、14の断片の形で戻ってきた。フェラーリFerrariによって修復、1816.4.17、元の位置に設置(第5段階)。
現在の翼と尻尾はこの段階のもの。不在の間そこに置かれていた木芯銅板による獅子は撤去された。
Ⅵ 1891-92年──考古学者ボーニGiacomo Boniによる小規模な修復(第6段階)。
最初の科学的研究はボーニに帰される。あらゆる時代、あらゆる地域の獅子像と比較した結果、「最も近い比較例はロマネスクの石造獅子像であり、「獅子」は1200年頃ヴェネツィアで作られた」と考えた。
1892年、ヴェンドラスコGiovanni Antonio Vendrascoの研究。「オリジナルはアッシリアの狩獵の神、獅子の身体に人面を備えたニルガルNirgalを表していた」。
1902年、ヴェントゥーリA. Venturiの研究。「おそらくサーサーン朝ペルシアの作で、第4次十字軍の結果コーンスタンティノポリスからヴェネツィアに齎された」。
1947年、ワード・パーキンスJ.B. Ward Perkinsの研究。1945年、一時的に円柱から下ろしてパラッツォ・ドゥカーレ(Palazzo Ducale)の回廊に保管されていた時に現物調査。「前7/6世紀、小アジア東部またはシリア北部で作られた。失蠟鑄造法で作られているが、この時代この技法はギリシア本土ではまだ知られていなかった」。
1990年、スカルフィBianca Maria Scarfìの研究。上記はこれに基づく。
Scarfì 1990: Bianca Maria Scarfì (a cura di), Il Leone di Venezia. Studi e ricerche sulla statua di bronzo della piazzetta, Venezia 1990.
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