27/XII/2018


A-8  Zeus + Horse and Jockey Boy from Artemision  アルテミーシオンのゼウス+馬と少年騎手



要約  Summary


1【現所在】

アテネ、国立考古博物館。

A-8.1[アルテミーシオンのゼウス]Inv.X15161

A-8.2[アルテミーシオンの馬と騎手]Inv.X15177


2【発見/一括出土品】

 [ゼウス]はエウボイア北西部のアルテミーシオン岬沖で、1926年と1928年に発見された。まず1926年に左腕が漁船の網にかかり、次いで19289月に残る部分が盗掘漁船によって発見され、その現場を捕えた官憲によって陸揚げされた。

 続いて同所で[馬と騎手]が1928-29年と1936年に発見された。まず192811月、ギリシア考古局のベルトス率いる考古学的調査によって、右脚を欠いた騎手(ジョッキー)と馬の前半分が、次いで1929年春に馬の右前脚、右後ろ脚と騎手の右脚が得られた。遺品はすべてアテネ国立考古博物館に運ばれ、ゼンゲリスの指揮の下で修復作業が進められた。[ゼウス]と[騎手]は発見から時を措かずして展示されたが、断片に過ぎなかった[馬]は倉庫にとどめられた。またこの時点ではサイズの違いから[馬]と[騎手]とは別の作品と見做す者もあった。

 そして1936年に馬の後ろ半分が、前の発見場所からはかなり離れたところで別の漁船の網にかかり、国立考古博物館で修復が始まった。この修復は1972年に終結し、公開された。その後馬の上に少年騎手を乗せた形で展示され、共通の収蔵番号が附与された(▶)。

 1928年のベルトスによる発掘の際、[ゼウス]の両足は馬の前半身の上に乗っていたことが分かった。また馬の身体は大量の小石によって覆われており、さらに木と鉛板の断片が多数見つかった。小石は古代船の底荷で、鉛板は虫食い防止のため船底に張られていたと推定される。一括出土品についてまとまった報告がなされたのはようやく1979年のことであるが、スキュフォスとテラコッタのランプの断片は前2世紀から前1世紀前半(下限は前80年頃)に比定され、とりわけスキュフォスは小アジア西岸、おそらくペルガモン製と判断された。



A-8.1  アルテミーシオンのゼウス



3【寸法】

全体の高さ 209cm

基台から性器の付け根までの高さ 100cm

頭部の高さ(額中央の前髪の分け目の頂部から、ひげの中央下端までの距離)29cm

 

幅最大 210cm

両足の距離最大(右足の親指の先から左足の親指の先までの距離)95cm


4【科学的調査】

 合金分析──アテネ国立考古博物館の化学研究所で1996年にブロンズの合金組成が分析された。六ヶ所から採取された試料の平均値はCu 86.97%, Sn 11.04%, Pb 0.05%で、鉛を意図的に含まない銅と錫の二要素合金である。

 厚さ──不明。「薄く、一様」というが、数値は示されていない。

 鑄造土の分析──1996年、頭頂部に付着していた鑄造土だけが分析された(Tzachou-Alexandri 2000)。フォルミッリとシュナイダーによって分析された古代ブロンズの鑄造土と比較すると、[リアーチェA]の(首部の熔接土以外の)鑄造土に近く、同様にアテーナイの土である可能性が高い、とされたが、今では[リアーチェAB]の土はどちらもアルゴスと考えられている。

 発見後の修復時に撮影された写真を見ると、両腕の外れた[ゼウス]の左腕の内部に、まだ鑄造土と見られる物質が詰まっていたことが分かる。当時は鑄造土の齎もたらす情報に無頓着で、像内から取り出して捨ててしまったものと思われる。内部にあったに違いない鉄の支持棒についての記述も報告書にはない。


5【制作技術】

 間接失蠟鑄造法。主要な分鑄:10(▶)。(1)頭部。熔接線は首の下の方。唇は別鑄。(2)トルソと両脚。肩まで含む。両足の中ほどまで同鑄。両乳輪は別鑄。(3-4)右腕、右手。手首で熔接。(5-6)左腕、左手。手首で熔接。(7-8)陰嚢、ペニス。陰毛はトルソ側。(9-10)両足の前半分。両中指は同鑄。

 特徴──〈11 湯口・湯道・揚がりの切除、付着物の除去、分鑄部品の熔接〉頭部(とトルソ)、両腕(とトルソ)(▶)、左手(と左腕)の熔接は「楕円形鑄掛け熔接」。右手(と右腕)など、それ以外は普通の鑄掛け熔接に見える。

 〈14 乳輪・乳首、唇、歯、目の装着〉両乳輪は別鑄。唇は別鑄の上、機械的に装着。

 眉は周りを彫り取って、眉全体を覆った銀または銅の薄片を溝に押し込んでいた。同様の眉が認められる同時代の例には、[ウジェントのゼウス](T)[クレウシースのポセイドーン](A)「アクロポリスの少年頭部」[セリーヌースの少年](P)がある。この技法は前5-4世紀の鍍金の仕方と同じである。例えば[アゴラーのニーケー頭部](A)[アゴラーの騎馬像断片](A)

 両目は失われたが、睫毛が部分的に残っている。


6【様式上の比較例】

 ゼウスを表した比較例──

(1)[ウジェントのゼウス](T)。南イタリア、ウジェント出土。現ターラント。高さ74cm。前520-500年頃。

(2)「ミュンヘンのゼウス小像」。現ミュンヘン。高さ18.6cm。前530-520年頃。

(3)「ドードーナのゼウス小像」(▶)。ドードーナ出土。現ベルリン。前470年頃。

 ゼウス以外の比較例──

(4)「オンファロスのアポッローン」。原作は前470-460年頃。髪形、トルソの筋肉構成。(a)「オンファロスのアポッローン」(▶)。アテーナイ、ディオニューソス劇場出土。現アテネ(Athina, 45)。高さ176cm(b)「ショワズル・グッフィエのアポッローン」。現ロンドン(BM, 209)。高さ178cm

(5)[デルフォイの馭者](D)。前478-466年。頂部の髪。

(6)[リアーチェの戦士A](R)。前460年頃。

 特に(3)(4)によって前470-460年頃と推定される。これまでに挙げられた作者名はオナータース、カラミス、ミュローン、ハゲラーダース/アゲラーダース。



7【碑文】

 なし。


8【意味】

 これまでに提出された解釈は「ゼウス」「ポセイドーン」「競技者」の三つに分かれるが、ゼウスである。【様式上の比較例】で見たように、ポーズはゼウスに典型的である。三叉の矛は通常は突く武器で、投擲するものではない。三叉の矛にせよ競技者の槍にせよ、長く重いものがこのブロンズ像の右手の中に握られていたなら、長期に亙る風雨の影響で右手にかなりの損傷が認められるはずだが、それがない。

 右手には雷霆を握っていた。雷霆は別鑄の上、右手に装着されていた。ヴュンシェはピンを使った装着法を想定している(Wünsche 1979)。前方に差しのばした左手には何も持っていなかった。


A-8.2  アルテミーシオンの馬と少年騎手



9【寸法】

[馬]

 高さ 205cm

 現代の尻尾を除いた長さ 250cm

 頭部の長さ 50cm

 体軀の最大幅 53cm

[騎手]

 高さ 84cm


10【科学的調査】

 合金分析──

[馬](前半身左側、[騎手]の左向こうずねに隠されている部分から取られた試料)Cu 87.98%, Sn 9.47%, Pb -

[騎手](衣の右下端から取られた試料)Cu 88.26%, Sn 10.17%, Pb 0.17%

 厚さ──

[馬]2-3mm

[騎手]2.5-3.5mm。ともに薄く、比較的むらがない。

 鑄造土の分析──まだ行われていないようである。発見当初、[馬]の前半身の一部には鑄造土が残っていた。[騎手]の左脚には膝まで鑄造土が現存している。


11【制作技術】

 [馬]間接失蠟鑄造法。分鑄:5以上(▶)。(1) 頭部・胴体・左後ろ脚を含む、馬体の大部分。(2-3) 両前脚。体軀との熔接は「楕円形鑄掛け熔接」。(4) 右後ろ脚=遊脚。体軀との熔接は「楕円形鑄掛け熔接」。(5) 失われた尻尾。(6-7) おそらく陰嚢とペニスも別鑄と思われる。

 [騎手]間接失蠟鑄造法。分鑄:4以上(▶では左脚の分鑄は表されていない)。(1) 頭部。トルソとの接続には輪状の部品が使われている。これは[イズミールの女性像断片](I)にも認められる。(2) 左腕。トルソとの接続は「楕円形鑄掛け熔接」。(3)左脚。(4) 短衣で覆われたトルソ。──確実に確認される分鑄はこの四つだが、おそらく次の各部分も分鑄され、短衣とのあわいで熔接されていると思われる。(5) 右胸と右腕。(6) 右脚。

 

 保存状態──[馬]の大きな欠損部分は胴体の中央部、尻尾全体、左の蹄。中央部が失われ、前半身と後半身が直接接する部分はないが、前半身と右前脚だけでなく右後ろ脚も同じ所で発見され、また両部分は様式・大きさ・技術が同じなので、共通の馬体に属していたことは疑いない。馬の背に着衣の裾の断片が付着しており、それが[騎手]の短衣の裾に似ていることは、両者の一体性の根拠になる。

 [騎手]の大きな欠損部分は右上腿部、短衣の裾。頭部、胸、左手、腿、背の衣部分にも欠損箇所がある。

 

 特徴──〈11 湯口・湯道・揚がりの切除、付着物の除去、分鑄部品の熔接〉[馬]の両前脚と右後ろ脚=遊脚には「楕円形鑄掛け熔接」が適用されている。左後ろ脚には熔接の痕は認められない。これは支脚なので胴体と同鑄。「馬」の歯・口蓋(こうがい)・舌はそれぞれ別鑄の上、口に熔接されている。舌は赤い色を表すためおそらく銅。

 〈12 不完全部分の補修、細部の彫り、表面の仕上げ〉[馬]の右大腿部には有翼のニーケーの輪郭が象嵌されていた(▶)。おそらく銀か金。

 馬の首から背にかけて走る鬣は短く刈り込まれている。その両側の一部は剃られていて、その部分の皮革には細かい点刻がぎっしりと施されている。鬣が元の形をとどめて表されているのは、少年騎手に近いその末端部だけである。クセノフォーンは、騎手が馬に乗る際の便宜と落馬防止のために摑まる部分を残しておくように忠告しているが(Eq.8.6)、この箇所がそれに該るのかも知れない。皮革に施された微細な点刻は[クィリナーレの拳闘士](R)のヒマクス/籠手(こて)の縫い目を表す点刻を想起させる。

 表面の摩滅の跡から、別鑄の上装着されていた馬勒(ばろく)を復元することができる。轡(くつわ)のハミ棒が口の中に残っているが、これは頭部と同鑄。顎の下にあるおそらく鉛製のピンは鼻勒を固定するためのものだった。

 二本の手綱の断片が[騎手]の左手の平に付着しているが、これは左腕と同鑄かも知れない。手綱の他の部分は無論別鑄であった。右手の拳の中には握っていたブロンズの棒の痕跡があり(拳と同鑄)、少年は鞭または突き棒を持っていたと推測される。像の下部、股の部分は作らずに空けたままなので、他の彫刻すなわち馬の上に乗せることを当初から意図していたことが分かる。これは[マルクス・アウレーリウス騎馬像](R)と同じ接続法である。

 〈13 着色、鍍金〉[馬]の一つの蹄から試料を採った分析によって、現在黒色を呈している蹄には硫黄を熱して黒色の着色を施していたと推定された。[騎手]の頭部にも黒の着色の痕跡が認められ、この少年が黒人であることが示されていたと考えられる(▶)。

 〈14 乳輪・乳首、唇、歯、目の装着〉[騎手]の右の乳輪はトルソと同鑄。口は頭部と同鑄のようである。

 〈15 基台への据え付け〉発見当初[馬]の両後ろ脚からは鉄の支持棒が突き出ていたという。それと鉛のほぞとで基台に固定されていたと考えられる。馬体の中央部が失われたため、現在の展示では中央に支持棒を立てている。以前私は「古代にはおそらく両後ろ脚だけで支えていたと思われる」としたが(Hada 2008)、古代にはなかったステンレスの支持棒で支えない限り無理なようだ。


12【様式上の比較例】

 [馬]は両脚を揃えて跳躍している。四本の脚を同時にすべて伸ばした瞬間を捉えられているが、これは古代美術に見られる前方に向かう力強い運動を表すための一つの定型表現である。馬が走るときには脚を交互に運ぶことをギリシア人が知っていたことは、「パルテノーン・フリーズ」(A-4)を見ても分かる。

 [馬]の表現はクラシック期の手本から学んでいる。長くまっすぐな頭部、首部の平面的な表現、および短く刈り込んだ鬣とそのところどころに作られた隙間などは、次の場面に表された馬を想起させる。これらは[カピトリーノの馬](R)[サン・マルコの馬](V)など現存する殆どのブロンズの馬たちの手本となった。[アルテミーシオンの馬]の表現も明らかに前5世紀の馬たちに基づいているが、頭部と脚部の誇張された血管の表現はヘレニズム期のものであり、前2世紀後半以降の擬クラシックに属すると判断できる。

(A-1) オリュンピアーのゼウス神殿の東ペディメント「ペロプスとオイノマオスの戦車競走」。前470-457年頃。

(A-2) パルテノーン神殿の東ペディメント「アテーナーの誕生」(▶)。前442-438年頃。

(A-3) 同、西ペディメント「アテーナーとポセイドーンの争い」。

(A-4) 同、北フリーズ「青年騎馬隊」。前442-438年頃。

 

 [騎手]に最も近い比較例は

(B-1) 大理石彫刻「ボルゲーゼの戦士」(▶)。ローマ模刻。アンツィオ出土。現パリ(Louvre, Ma527)。原作はブロンズ、前2世紀後半。逆方向に伸びる両腕、眼差しの方向、開いた両脚などからなる遠心的構成原理、および連続する激しい動作の瞬間的捕捉が酷似。

(B-2) 大理石浮彫「馬と馬丁」。アッティカ製。現アテネ(Athina, 4464)。前4世紀末。黒人少年馬丁の突き出た頬骨、厚い唇、広がった低い鼻といった特徴が似ている。縮れた髪は[騎手]との相違点。

 

 「馬と騎手」一体としての比較例としては

(C-1) 陶器画「乗馬競技」。アッティカ赤像式パン・アテーナイア・アンフォラ。現ニューヨーク(New York, 56.171.3)。前490年頃。二騎のうち右に描かれた馬と騎手の形が[アルテミーシオンの馬と騎手]と似ている。

(C-2)「馬を駆るケルト人」。テラコッタ製「対ケルト戦争フリーズ」の断片。ポンペイ出土。現ナポリ(Napoli)。ペルガモンの「ケルト人群像」に由来すると考えられる。長方形基台の「大奉納群像」は前238-223年頃、円形基台の「円形奉納群像」は前228-223年頃。そのうちの長方形基台の方である。

(C-3) ローマ銀貨デーナーリウス。ルーキウス・カルプルニウス・フルグス発行、前90年代。少年騎手は身体を前に屈め、右手を前に伸ばして手綱を緩め、左手には勝利を意味する棕櫚の枝を持っている。馬は四肢を前後に伸ばして疾走する。[アルテミーシオンの馬と騎手]や前5世紀の陶器画(C-1)と同じく後ろ脚は揃え、前脚は多少高さを違えている。

 [アルテミーシオンの馬と騎手]では馬と少年の大きさの違いが誇張されている。また馬自体、前脚は短く、後ろ脚は長くされている。こうしたデフォルメもヘレニズム期の特徴と考えられる。



13【碑文】

 なし。


14【意味】

 乗馬競走ケレースにおいてギャロップで駆ける馬と騎手である。騎手は駿馬に鞍など置かずに跨り、両足には素足にじかに拍車の付いた革紐を巻き付け、左手は前に伸ばして手綱を緩めており(▶)、右手は後ろに向けて、手にした鞭または突き棒で馬の尻に刺戟を与えようとしている。[騎手]の着衣はエクソーミス(「肩を出す」の意)と呼ばれるごく短いキトーンで、左側は留め金で袖口を作り、右側は胸をはだける。活動的な人々、奴隷、職人、ヘーファイストス、アマッゾーン(▶)、カローンが一般にこれを着て表される。少年はウエストのところで帯を締めている。

 主視点は明らかに馬の左側にある(▶)。ゴールに向かって身体を伸ばしながらも首を左側に傾ける馬、手綱を握った左手を前に伸ばして緩め、顔を左側に向ける少年。ここには勝負を決めた局面が捉えられている。少年が左に顔を向けるのは、隣を走るライヴァルの位置を確認するためであるが、両目が失われたため眼差の方向が分からない。相手をリードしているのか、されているのか。おそらく劣勢なのだろう。今この瞬間、少年は馬を奮い立たせ、そして勝利を奪い取るのである。

 この少年騎手は精々11-12歳であり、最年少組の勝者である。(額の皺を根拠に、小柄な年長者とする見方もあるが、どうだろうか。)容貌はアフリカ(アイティオピアー)の黒人とギリシア人の混血の特徴を備えている(▶)。勝利した黒人少年の肖像。とはいえ公式の勝利者は馬の持ち主であることは[デルフォイの馬車群像]の馭者の場合と同じである。

 馬の右の腿に、冠を差し出すニーケーの輪郭線が象嵌されていた(▶)。現実にも馬に焼き印が押されたのはここであり、輪郭線による表現も焼き印を写実的に再現したものである。これは勝利者たる馬主独自の烙印とも、いわばサラブレッドであることを示す公印とも解される。

 [馬と騎手]の由来を推定した数少ない研究者の一人モレーノは、ペルガモンのアッタロス一世が前220年頃に創設した公的祭式の中に乗馬競走があり、少年部門もあったとして、この像はペルガモンにあったと考えた(Moreno 1994)。ペルガモンと結びつけるのは上記様式上の比較例の(C-2)および一括出土のスキュフォスに基づくが、しかし他の聖地──オリュンピアー(オリュンピア競技)、デルフォイ(ピューティア競技)、コリントス(イストゥミア競技)、ネメアー(ネメア競技)──、およびアテーナイの乗馬競走にも少年部門はあった。ヴュンシェ(Wünsche 1979)とヘミングウェイ(Hemingway 2004)はコリントスと結びつけた。


15【総合的考察】

 [ゼウス]と[馬と騎手]の由来、および積載船の航路について推定する手掛かりを整理すると、まず同時出土のスキュフォスはおそらくペルガモン製で、前2世紀から前80年頃に比定される。[ゼウス]は様式上の比較例によって前470-460年頃に置かれ、鑄造土の分析によって制作地はアテーナイと推定される。[馬と騎手]は様式的比較例から前2世紀後半と推定される。

 [リアーチェの戦士A/B(R)で詳述するように、前2世紀はローマがギリシアの神域から奉納美術品を恣(ほしいまま)に掠奪した時代である。先に挙げた乗馬競走の行われた主要な聖地のうち、この時代に大規模な掠奪を受けたのはコリントスであり、アルテミーシオン沖で沈んだ積載船の国籍がおそらくペルガモンであることから、その積荷と、前146年にローマのムンミウスがコリントスで行った掠奪との関係が想定される。コリントスの膨大な数の美術品はローマとその同盟国ペルガモンとで山分けされたからである。おそらくペルガモンの将軍ないしその配下の者が、コリントスの神域に立てられていた[馬と騎手]その他に加え、アテーナイで[ゼウス]を積み込み、北回りでエウボイア島からマケドニアーの沿岸を通ってペルガモンに帰ろうとしていた途中で沈んだと考えられる。前148年にローマの属州となったマケドニアーにも食指を動かしたのかも知れない。

 [馬と騎手]は、[馬]の擬クラシック性および前2世紀後半の「ボルゲーゼの戦士」(▶)との類似を重視し、下限である前146年に近い前150年頃に、コリントスの神域に奉納されたものと推定される。



16【主要文献】

[ゼウス]Karouzos 1931; Wünsche 1979; Tzachou-Alexandri 2000.

[馬と少年騎手]Kallipolitis 1972; Moreno 1994; Hemingway 2000; 2004.

 

Karouzos 1931Χρήστος ΙΚαρούζος, «Ὁ Ποσειδών τοῦ Ἀρτεμισίου», ArchDelt (Ἀρχαιολογικὸν Δελτίον), 13, 1930-31 (1933), 41-104, Πίν. 1-10.【「ゼウス」をポセイドーンと解釈。】

Kallipolitis 1972: V. G. Kallipolitis, «Ἀνασυγκρότησις τοῦ χαλκοῦ ἵππου τοῦ Ἀρτεμισίου» (The Bronze Horse from Artemision), AAA (Athens Annals of Archaeology), 5, 1972, 419-426.【馬と騎手。】

*Wünsche 1979: Raimund Wünsche, «Der Gott aus dem Meer», JdI (Jahrbuch des Deutschen Archäologischen Instituts), 94, 1979, 77-111.【ゼウスであることを証明。】

*Moreno 1994: Paolo Moreno, Scultura ellenistica, 1994, I, 296-302 (Cavaliere dell'Artemisio), fig. 367-383.

Hemingway 2000: Seán A. Hemingway, «A technical analysis of the bronze Horse and Jockey group from Artemision», Bronze 2000, I, 226-234.

Tzachou-Alexandri 2000: Olga Tzachou-Alexandri, «Some remarks on the bronze god of Artemision», Bronze 2000, I, 87-95.

*Hemingway 2004: Seán A. Hemingway, The Horse and Jockey from Artemision: A Bronze Equestrian Monument of the Hellenistic Period, Berkeley 2004.【総合的考察。】