7/I/2018


R-1   Bronzi di Riace A+B  リアーチェの戦士A+B


1【名称】


2【現所在】


3【発見・修復】

発見、第一次修復

 1972816日、ローマの化学者マリオッティーニ(Stefano Mariottini)は、リアーチェに近いモナステラーチェ・マリーナ(Monasterace Marina)にヴァカンツェに来ていた(Sabbione 1984, fig.1; Freschi 1984, tav.II.1-2)。この日の午前中、リアーチェ・マリーナのアグランチ(Agranci di Riace Marina)地区の前の、土地の人がポルト・ファルティッオないしフラティッキオと呼ぶ水中の岩礁(Sabbione 1984, 9: Porto Farticchio o Fraticchio; Freschi 1984, 25: porto Farticchio)の付近で、彼は二人の従兄弟と一緒に水中に潜って狩りをしていて、「何か人の肱と腕に似たもの」を見た。砂を掘るとブロンズ像が現れ(B)、さらにその近くにもう一体発見した(A)。マリオッティーニはそこに目印のため気球を残しておき、午後再び親戚たちと潜水して確認した。ファルティッキオ(farticchio)は「フォーク状のもの」(forcella)を意味する土地の方言で、実際この付近の岩礁は空から見るとフォークの形に見え、その間の空間が港を思わせたのである(Freschi 1984, 25, fig.1)

 マリオッティーニの親類たちは、その友人であるレッジョ・カラーブリアのナートリ(il dott. E. Natoli)が、1969-1970年にポルティチェッロの調査に際してカラーブリア監督局(Soprintendenza della Calabria)に協力したことを知っていた。その日(16)の夜彼と連絡を取って、監督局長フォーティ(Giuseppe Foti)の自宅に電話をかけ、発見を口頭で伝えた。監督局長(Soprintendente)は直ちに発見者たちをレッジョに呼び、通報の正式な手続きを取り、詳しい情報を得、その後の活動を組織した。発見物を大至急回収する必要があったが、カラーブリア監督局にはまだ自前の潜水調査組織がなかったため、とりあえずマリオッティーニとナートリを監督局の委嘱者として正式に任命した。あいにく監督局長フォーティは前から決まっていた、ギリシアと黒海への(Foti—Sabbione 1981, 5)外国出張のためカラーブリアを離れなければならなかったので、監督官グッツォ(l'ispettore dott. Pier Giovanni Guzzo)をカラーブリアに呼んで、二つの像の回収と、レッジョ・カラーブリア国立博物館への運搬の任務を委託した。グッツォは819日に最初の現場検証を行ったが、二体のブロンズ以外の考古遺品についての新情報は得られなかった。821日からはメッシーナ・カラビニエリ潜水部(Nucleo Carabinieri Sommozzatori di Messina)が作業に加わった。

 21日、まずBが引き上げられた。酸素気球と綱で水面まで引き上げた後海岸に運び(Riace 1986, tav.I-II)、マットレスを敷いた担架に仰向けに乗せて(Riace 1986, fig.2, 5, 6; Foti—Sabbione 1981, fig.p.8-9)、貨物自動車でレッジョ・カラーブリア国立博物館まで運び(Foti—Sabbione 1981, fig.p.10-11)、夜には表面の洗浄が始められた。翌22日にはAについて同じことが繰り返された。Bと違ってAの頭部は付着した砂と小石によって完全に覆われていた(B: Sabbione 1984, fig.2; A: fig.3, 5)。修復作業はスピネッラとヴィオーリ(Gesuele Spinella, Pasquale Violi)が担当した。23日にも他の遺品を求めて捜索が続けられたが、収穫はなかった。グッツォは「ヘレニズム時代ギリシアのオリジナル」と発表した(Foti—Sabbione 1981, 5)

 フェッラゴスト/聖母被昇天(Ferragosto)のヴァカンツェの折から、大勢の土地の人々がこの作業を見守った。リアーチェの守護聖人コスマとダミアーノ(Cosma e Damiano)が海からやって来るという言い伝えが、カラーブリアでは広く知られていたことも、人々の興味を掻き立てた。発見の数年前まで、毎年とは言えないようだが、この医術に関する二聖人の祝祭日にはリアーチェ・スペリオーレ(Riace Superiore)付近の聖域からちょうどこの海岸まで聖遺物ないし聖像を担いで行列が行われ、「サン・コスマの岩礁」でそれを沈める儀式が執り行われていたとも(Freschi)、海から二人の像が現れたとも(Sabbione)される。いずれにせよその場所はおそらくこのフォークの外側の岩礁だったと思われ(Freschi)、そのすぐ外の岩の間に、二体のブロンズは沈んでいたのである。

 発見者マリオッティーニによれば、Bは仰向けに横たわり、左腕が砂から出ていた。Aは右側面が下になっており、まず左腕と左脚が認められた(Pallarès 1984, 21, fig.8)。両者はおよそ1.5mの間隔でほぼ並行に横たわっていたとされるが、正確なことは分からない。なおマリオッティーニが新聞の取材に対して行った言明は(Mariottini 1981)A/Bを混同し、間隔を50cmとするなど、不正確である。発見位置はカラビニエリの報告では海岸から300m、グッツォによれば220m、深さは8m (Lattanzi 1986, 15)、ランボリアによれば6m (Di Vita 1984, 272n4)ほどの地点である(Freschi 1984, tav.II.1 =Lattanzi 1986, fig.1)1981年に調査したフレスキによれば、付近の水深は平均5m、外側/海側の岩礁の頂部は水面下2m、内側/砂浜側の岩礁の頂部は殆ど水面に触れていた(Freschi 1984, 25)

 

 19721012日、ターラントで開催されたマグナ・グラエキア研究会(XII Convegno di Studi sulla Magna Grecia)でフォーティがリアーチェのブロンズについての最初の公式報告を行い、前五世紀のギリシアの原作と評価し、二体の足裏に充填された鉛のほぞを根拠として、おそらくローマ時代に原位置から外されてギリシアからローマに運ぶ途中で海中に沈んだと推定した(Foti 1973)。続いて1973828日から94日にかけて行われた海底調査で、ボルディゲーラにあるリグーリア研究所の水中考古学実験センター(Centro Sperimentale di Archeologia Sottomarina dell'Istituto di Studi Liguri, Bordighera [Albenga])──当時この分野でイタリア国の委託を受けていた唯一の研究機関──のランボリア(Nino Lamboglia)たちは、Aが左手に握っていた楯の握り(アンティラベー)の断片を発見した(Pallarès 1984, 22, fig.13; Soprintendenza 1984, 91fig.65b)。しかし彫刻を積んでいた船の遺留品は発見されなかった。鉛の輪28個が見つかったが(Pallarès 1984, 23, fig.14)、帆の留め具にはそぐわないと考えられる。ランボリアは、《嵐の際船の重量を軽減するためおそらく甲板に積んでいた荷物を海中に落とした。船自体は転覆を免れた、または離れた場所で沈んだ、或は転覆して砂浜に乗り上げた。沈没した場合積荷は広範囲に散らばった》、と推定した(Lattanzi 1986, 16; Gianfrotta—Pomey 1981)。調査結果はその年のマグナ・グラエキア研究会(XIII)で発表されたが、その後ランボリアが事故で亡くなったため、1979-80年まで刊行されなかった(Lamboglia 1979; Lamboglia 1980)1980年と1981年にも水中捜査が行われたが、成果は得られなかった。意味ある発見物はローマ時代の一艘の船の龍骨(キール)の断片だけである(長さ59cmFreschi 1984, fig.3-4; Fiorentino 1984)

 19741010日のマグナ・グラエキア研究会(XIV)でフォーティは、二つのブロンズはともに前五世紀中頃ないしそれより少し前に、アッティカの一人の彫刻家が制作したもので、おそらく同一の群像に属していた、と考えた。19785月にゼルフィで行われたシンポジウムでフックスは、もとあった場所の推定を初めて試み、アテーナイ人がマラトーンの勝利を記念してデルフォイに奉納した群像に属していたとし、どちらもフェイディアースの作と考えた(Fuchs 1979)Aの修復者フォルミッリは1980年にすでに、リアーチェのブロンズが間接鑄造法で制作されたという見解を発表している(Formigli 1980)1980年に修復が終わって公開されたことを受けて、1981年以降研究論文が急増する。リアーチェのブロンズに関する最初のモノグラフィーが1981年に刊行されたが(Busignani 1981)、学問的にはきわめて問題が多い。1981928-30日にはコセンツァ(l'Università della Calabria, in Arcavacata, Cosenza, e a Reggio)でリアーチェについての研究会が開催された(Riace 1986; cf.Lachenal—Rizzo 1984, 337)。そして1984年、記念碑的な公式研究報告書が刊行された(Riace 1984)

 

 リアーチェのブロンズの収蔵先について、発見場所から最も近い博物館であるロクリの古代博物館(Antiquario)も候補に挙がったが、そこはロクリ・エピゼフュリ(Locri Epizephyrii)の出土品を収蔵するために1971年に作られたばかりであることから、1973年には(Lattanzi 1986, 21)レッジョ・カラーブリア国立博物館に決定された。1969年に発見されたポルティチェッロのブロンズ遺品が1972年にローマの修復研究所(Istituto Centrale del Restauro di Roma)に移されたが、その前例に倣ってリアーチェも、修復と共に高水準の分析研究を行うため19751月にフィレンツェの修復研究所(Laboratorio nel Centro di Restauro della Soprintendenza alle Antichità di Firenze)に移された(1/16: Lattanzi 1986, 20; 1/17: Sabbione 1984, 15; Riace 2003 [II], 17)1980年には修復研究が終わり、その年の末1215日から19816月まで(Lattanzi 1986, 21; Di Vita 1984, 272n1)フィレンツェの考古博物館で、次いで19816-7月に(Marcadé 1986, 89)ローマのクィリナーレで一般に公開された(Riace 1986, tav.XXXVI-XXXVII)。フィレンツェでは六十万人、ローマでは三十万人が押し寄せたという(Mattusch 1997, 18)。フィレンツェにおける展示中にマスコミの間で、リアーチェをフィレンツェの「芸術的環境」にとどめ置くべきだという意見が高まったが(Lattanzi 1986, 21)、すでに決められていた通りブロンズは最終的にレッジョ・カラーブリアに戻り、83日以降、ポルティチェッロのブロンズ(Reggio Calabria, Porticello A)と一緒に展示された(Lattanzi 1986, 22)。最初の一年間で七十万人が訪れたとされる(Mattusch 1997, 19)。この展示法はリアーチェとポルティチェッロを水中考古学研究の一環として位置づける、フォーティの考えに従ったものである。リアーチェの二体のブロンズは、広い四角形の部屋に除湿装置を設置し、広い間隔をあけてそれぞれ耐震設備のある基台の上に立てて展示された。

 

 発見者のその後について。1972816日、リアーチェ・マリーナの数人の若者もまた二つの像を見つけ、翌朝再び潜って確認した後、81712時、モナステラーチェの財務警備隊の部隊本部(Comando di Brigata della Guardia di Finanza di Monasterace)に赴いて発見を通報した。ここからマリオッティーニとリアーチェの若者たち(Cosimo Alì, Antonio Alì, Domenico Campagna, Giuseppe Sgrò)との間に、発見の優先権と発見報酬の権利をめぐる裁判紛争が生じた。マリオッティーニは若者たちは彼が残した目印の気球に引き寄せられたのだと主張し、これに対し若者たちは、相手方はぼくたちが海底で見た物について無邪気に話しているのを聞いて知ったのだと主張した。この論争の解決のために決定的だったのは、グッツォが最初の現場検証の時に記した記録に、発見をめぐるこの二つの説を記していたことである。1977年、ローマ民事裁判所(Tribunale Civile di Roma)の判決はマリオッティーニに発見の優先権を認め、とりわけ法律によって発見者に帰属すると定められた報酬を受け取るために必要条件である通報についての優先権を認めた。1974614日付の評価に関する調書で二つの像に合わせて500.000.000リラ(500 milioni)の価値が認められ、文化財省の承認を経て、上記判決の後、法律によって定められた四分の一の取り分である125.000.000リラ(125 milioni)が、省からマリオッティーニに支払われた。/以上主としてSabbione 1984 (Rinvenimento)により、他の資料からの情報についてはその旨明記した。

 次のような噂がなされたことがある。二体の彫刻は、リアーチェではなく実はアドリア海のアブルッツィないしモリゼ地方(Abruzzi, Molise)で漁師たちが見つけたのだが、彼らはカラーブリアまで牽引して行き、そこで密売に失敗したため海中に沈めた。一方の戦士が持っていた楯をアブルッツィの或る人物が所有している、と(Mattusch 1997, 19)

 もう一つの噂は、人物と楯の断片がアメリカのポール・ゲッティ美術館に入った、とする。美術館からイタリア政府に、「リアーチェ」をゲッティ美術館で展示させてくれたら断片を返還してもよいと打診があったが、イタリア政府は断ったという(Castrizio)。

 

伴出物、遭難状況

 ブロンズの付着物の中に、ひどく浸蝕された数少ない陶器の断片が見つかったが(Freschi 1984)、その年代はかなり長い時期に散らばっていると考えられ(Panella 1984)、この場所には他の多くの遭難に由来する物が堆積していたことを証していると考えられる。二体のブロンズの発見後水中の捜索が行われ、わずかな発見があったが、ブロンズAの楯の握りを除き、確実にブロンズ積載船の積荷ないし装備に属していたと言えるものはない。一艘の帆船に帰属される多数の鉛の輪(Pallarès 1984, 23, fig.14; Freschi 1984)とローマ時代の一艘の船の龍骨(キール)の断片(Freschi 1984; Fiorentino 1984)が、たとえリアーチェのブロンズを積載していた船の遺品だとしても(cf.Gianfrotta 1986, 28-30)、船の出港地と行先、その年代についての情報を齎もたらすわけではない。船の航路、沈没の年代、難破に遭うまでのブロンズをめぐる出来事、などに関する物証はない。この意味で問題はすべて作品そのものの直接の分析から考察する他はない(La Rocca 1996)

 嵐に遭った船の運命については、(1)嵐に際し船体を軽くするためにブロンズ像を海中に投げ捨てた。その結果船は沈没しなかった。(2)ブロンズ像を海中に投げ捨てたが、船は沈没した。(3)船はブロンズ像を積んだまま沈没した、のいずれかが想定される。(2)(3)のように沈没を想定する場合、(a)船体は波によって岸に打ち上げられた、或は(b)船は積荷を広範囲にばら撒きながら沈んだ、などの可能性が考えられる。A/Bがほぼ並行に並んで、わずかの間隔で発見されたことは、(3)を示唆している(Gianfrotta 1986, 30)とも考えられるが、ほぼ二千年に亙る波と砂の作用で二体が岩の間に追い込まれた可能性も否定できない。鉛の輪、龍骨の木片、アンフォラの小片がこのときの沈没船に属するかどうかも不明とするのが妥当である。

 

第二次、第三次修復

 発見から二十年後、1992年に再び修復処置が必要になり、今度はローマ修復研究所が担当して1995年まで行われた(Melucco Vaccaro 1996; Riace 2003 [I])19951129-30日にローマで(Accademia Nazionale dei Lincei, Seminario internazionale)その成果が報告され、マリオ・ミケーリとマッシモ・ヴィダーレによって、直接法で制作された可能性が指摘された(Micheli—Vidale 1996; Riace 2003 [II])。この研究会の論文集はようやく20036月に刊行された(Riace 2003)。その間フォルミッリとドイツの研究者たちによって、制作地の推定に関わる鑄造土の分析が1991年と1995年に公表された(出版はそれぞれ1993, 1999年:Formigli 1993; Formigli 1999)Aはアテーナイ、Bはコリントス。あるいはAはアルゴス、Bはアテーナイ。第二次修復研究の一環として基台も免震措置を施したものに変えられた。基台は二段からなり、高さは一段目が15cmほど、より幅の狭い二段目が40cm弱で、全部で55cmほど。

 

 200912月、収蔵機関であるレッジョ・カラーブリア国立考古博物館(Museo Nazionale Archeologico di Reggio Calabria/レッジョ・カラーブリア・マーニャ・グレーチャ国立博物館Museo Nazionale della Magna Grecia di Reggio Calabriaとも呼ばれる)の建物パラッツォ・ピアチェンティーニ(Palazzo Piacentini)の全面建て替えに伴い、「リアーチェの戦士AB」は近くの地方議会の建物パラッツォ・カンパネッラ(Palazzo Campanella)の一階に新たに設備された修復所に移され、20103月から一年間の予定で第三次修復研究が始まった。20138月までには、「AB」とも体内の鑄造土が一部を除いて完全に取り除かれ、内面の地肌が観察できる状態になった。

 第三次修復の責任者は当初はパスクァーレ・ダポート(Pasquale Dapoto)が務めたが、その後シモネッタ・ボノーミ(カラーブリア考古文化財局長: Simonetta Bonomi, Soprintendente dei Beni archeologici della Calabria)が直接指揮した。修復担当者はパオラ・ドナーティ(ローマの保存修復高等研究所: Paola Donati, Istituto Superiore per la Conservazione e per il Restauro)とジョルジョ・スケピス(カラーブリア考古文化財局修復研究所: Giorgio Schepis, Laboratorio di Restauro)。免震基台がエネア(新技術・エネルギー・持続可能経済発展のための国立研究機関)のジェラルド・デ・カーニオ(Gerardo De Canio, ENEA: Agenzia nazionale per le nuove tecnologie, l'energia e lo sviluppo economico sostenibile)によって新たに開発され、すでに20115月に博物館に設置された。新築なった博物館への「リアーチェの戦士」の移送は2013年末に実現し、20144月から展覧会「リアーチェのブロンズ 帰郷」(I Bronzi di Riace. Nostos Il ritorno)で公開された。修復研究の成果を公開する国際シンポジウムが予定されていたが、無期限延期状態である。第三次報告書もまだ刊行されていないが、簡単な報告はなされている(Donati 2014)。

 20156月にはミラノの展覧会で、ブリンクマンによる「A」の当初の武具を含めた色彩が、現代の技術による鑄造ブロンズによって提示された(Brinkmann 2015)。2015年、サレント大学の研究者たちによって、黒色皮膜が、従来言われてきたようなCu2S(硫化銅I)すなわち自然生成物ではなく、CuS(硫化銅II)すなわち硫黄の塗布による意図的な着色であることが立証された(Buccolieri et al. 2015)。これまでパティナが2段階に形成されたことは想定されていなかったため、今後その点を考慮に入れて新たに試料を採取し分析が行われる。2016年、グラスゴー大学の研究者たちによって、鑄造土の採取地がABともアルゴスであることが確証された(Jones et al. 2016)。201611月、メッシーナ大学とレッジョ・カラーブリア考古博物館でカストリツィオと羽田を中心にセミナリオ「リアーチェのブロンズ──図像学と実験研究」が開かれ、カストリツィオらによる図像解釈と、日本の研究グループ(羽田・松本・黒川)による現物調査と再現制作の成果が発表された。